十字架による聖殿の回復 – 張ダビデ牧師

イエス・キリストがエルサレム神殿に対して「この神殿を壊してみよ。そうすれば三日で建て直す」(ヨハネ2:19)と仰せになった言葉は、福音書全体の脈絡の中で極めて重要な宣言であり、当時のユダヤ指導層にとっては致命的で挑戦的なメッセージでもあった。この出来事の根本背景を探ると、エルサレム神殿内で行われていた売買行為、供え物の販売、両替商の居座りなどは、単なる「神殿の商業化」ではなく、大祭司やその一族が権力と財を求めて神殿を徹底的に利用していた構造的腐敗であったことがわかる。とりわけアンナスとカヤパ、その一族は神殿のいけにえを独占的に運営し、検察官のような者を使って神殿外で買ってきた生贄に「傷」をあれこれと指摘し、結局、すべての人が高額の生贄を神殿内で買わざるを得ないように仕向けていた。これは貧しい者たちをますます苦しめ、罪の赦しを得るためには、泣く泣く高い生贄を神殿内で買わざるを得なかったのである。ゆえに主の「神殿を壊せ」という発言は、まさにそうした宗教権力者たちの不正と腐敗を鋭く打ち砕く預言的宣言であった。エルサレム神殿を宇宙の中心であり、ユダヤ教の絶対的権威と考えていた人々にとって、この宣言はどれほど不遜で危険に感じられたことだろうか。

張ダビデ牧師は、さまざまな説教や文章を通して、今日この御言葉が私たち自身に対しても依然として強力なメッセージを投げかけていると強調してきた。彼によれば、人間の罪性は「自己中心性」に根ざしており、それは「自分こそが正しい」と主張して他者を排除する態度、あるいは内面に自分を「宇宙の中心」として祭り上げた神殿を築いて、それが崩れることを拒む姿として表出する。古代のユダヤ宗教権力者たちが「エルサレム神殿こそ宇宙の中心であり、だれであっても神殿と祭司の体系に無条件で従わなければならない」と言ったのなら、現代を生きる私たちもまた、目に見える建物や制度、あるいは内的な信念体系を絶対化し、他者との和解を拒み、他人の存在を認めない自己完結的態度に陥りやすい。神殿を壊すようにと命じるイエス様の言葉は、「そのすべての自己中心と頑なさを捨てよ。私は三日で新たな神殿を建てる。それは十字架と復活によって開かれる、霊的で普遍的であり、だれでも入ることのできる真の神殿だ」という宣言である。最終的にキリストにあって私たちは建物によらず、御霊の礼拝と愛に満ちた生の中で神を礼拝するようになる。

ヨハネの福音書2章のこの出来事の後、イエス様は実際にアンナスとカヤパ一族をはじめとする大祭司勢力から激しい反感を買うことになり、それがヨハネ18章以降のイエス様の逮捕と裁判、十字架処刑へと繋がる重要な原因となった。イエス様を捕えて夜中にアンナスのもとへ連れて行ったこと(ヨハネ18:12-13)は、彼らがイエス様を単なる「異端の教師」程度ではなく、自分たちの権威と経済基盤を揺るがす深刻な挑戦者と認識していた証左である。彼らは「神殿を壊せ」と語った発言を偽証人まで立てて問題視し、これはステパノの殉教の際にも同様に適用された「神殿を破壊しようとしている」という罪状へとそのまま引き継がれる(使徒6:13-14)。つまりイエス様もステパノも「この聖なる場所(神殿)と律法に逆らう発言をした。モーセの伝えた掟を改めようとしている」という中傷を受け、それが致命的な裁判の口実とされたのである。

張ダビデ牧師は、私たちが信仰の中でまず悟るべきこととして、イエス様がこのように宗教権力と腐敗に真正面から立ち向かい、最終的に十字架につけられることで「まことの神殿」と「まことの礼拝」を開かれたという事実を挙げる。神殿は神の臨在を象徴する礼拝の場所だが、それが制度や人間の経済的欲望、自己義に満ちてしまうと、すでに神から離れた「空っぽの殻」となりやすい。イエス様ご自身がエルサレム神殿を直接浄め(ヨハネ2:13-17)、神殿権力の腐敗を叱責されただけでなく、「わたしの父の家を商売の家にするな」と宣言されたとき、反発が起きるのは当然であった。その神殿制度によって利益を得ていた人々は、イエス様を決して放っておかず、ついには十字架に追いやった。しかしこの過程においてイエス様は、ご自身の肉体という神殿が壊される苦難を喜んで負い、復活によって新たな神殿の実体を示されたのである。

ここで重要なのは、イエス様がなさった「神殿の清め」は単に建物を掃除する程度ではなく、ご自身の死と結びつく強力な預言的行為であったという点である。イエス様が「この神殿を壊してみよ。三日で建て直す」と仰せになったのは、ご自分の身体を指しておられ(ヨハネ2:19-21)、同時にエルサレムの物理的神殿体制を超える神の救いの計画、すなわちすべての人に開かれる救いの門を示唆する言葉でもあった。張ダビデ牧師によれば、この「壊せ」と仰る言葉には「おまえが握りしめている自己中心的な制度、貪欲と権力、傲慢と不義を打ち砕け。わたしがその十字架の死と復活を通して新しい道を開こう」というイエス様の御声が込められている。そしてこの御声は2000年前の宗教権力だけでなく、制度化され、ときに世襲や財政的欲望、権力志向の文化に染まりやすい今の時代の教会とキリスト者にも等しく適用されるのである。

さらに福音書においてもう一つ印象的な箇所は、ヨハネ8章に登場する姦淫の現場で捕えられた女性の物語であろう。当時の律法によれば、姦淫した者は石打ちにされねばならなかった(レビ20:10、申命記22:20-24)。書記官やパリサイ人たちは「モーセの律法ではこの女を石で打つべきだが、先生はどう考えるか」とイエス様を試し、事実上、律法を守るのか、慈悲を選ぶのかを問い、イエス様の態度を攻撃しようとした。イエス様の答えは「罪のない者が最初に石を投げよ」であり、それは「律法が語る罪と罰の図式」を超える「慈悲と赦し」の法、すなわち福音の核心を示すものであった。イエス様が地面に書かれた内容が正確に何だったかは記録されていないが、伝統的に「赦しなさい」「あなたがた自身の罪を顧みよ」「あなたがたが守れなかった律法とは何なのか」など諸説ある。大切なのはイエス様のこの行動が、パリサイ人と書記官たちに対して「トーラー(律法の核心)をまるきり無視したり廃棄されたりした」のではなく、トーラーが究極的に指し示す神の御心、すなわち憐れみと愛を実現してみせたということである。しかし当時の宗教権力の立場からすると、それは「律法を改変しようとしている」という反逆的企てとして見られ得たし、ステパノにも同じ罪名が適用されたのであった。

結局イエス様はこのように律法を超える愛と慈悲を実際に示されたがゆえに、腐敗した宗教権力や形式的律法主義に縛られた人々から徹底的に排斥された。張ダビデ牧師は、私たちがこの事実を見失うとき、信仰が硬直化し、「自分の神殿」を絶対化し、教会が愛と赦し、そして御霊の自由を失った「商売の家」となり得ると指摘する。どのような形であれ、自分で作り上げた神殿を「宇宙の中心」のように絶対視し始めるとき、キリストの十字架精神は姿を消し、律法的物差しのみが残って互いを裁きあいやすい。そしてこれはエルサレム神殿体制が辿った悲劇の道を教会が繰り返すことになりかねないというのである。

とりわけ使徒の働き2章の聖霊降臨は、イエス様が語られた「新しい神殿」の幕開けを示す。以前は一人の預言者さえ起こらなかった霊的荒廃の時代を生きていた人々に、聖霊が臨むと、120人の弟子たちが同時に神の霊を体験し、異言を語り始めた。当時のユダヤ人にとって「神の霊が下る」のはごく限られた特別な人物だけに可能なことと考えられていたが、今や主の自己犠牲と復活によって「男女の奴隷にもわたしの霊を注ぐ」(ヨエル2:28-29)との預言が成就し、社会的に最も低く見られた層に至るまで差別なく聖霊が注がれるようになった。張ダビデ牧師は、この場面について「主がご自身の神殿を壊されたことによって私たちに開いてくださった恵みの時代、すなわち聖霊の時代だ」と言う。もはやエルサレムという特定の場所でも、その神殿を運営する大祭司体制でもなく、イエス・キリストの十字架と復活によって切り開かれた新たな地平の中で、すべての信じる者が神へ直接近づくことができるようになったのだ。こうして教会はエルサレム神殿中心の排他的な宗教体制ではなく、イエス様を隅の親石として一つの体に築き上げられる霊的共同体となった(エペソ2:20-22)。パウロがエペソ2章で「主ご自身がわれらの平和であり、二つを一つにされた」と述べたとき、その「二つ」はユダヤ人と異邦人であるが、さらに大きく見れば、神殿の「制度的な壁」と聖霊の「自由」との間に横たわる計り知れない断絶、あるいは自己中心性にまみれた全人類の壁をも意味する。主は十字架によってその壁を壊し、新しい創造を開いてくださったのである。

それでは今の私たちに必要なのは何か。張ダビデ牧師は「神殿を壊せ」と仰るイエス様の言葉に、私たち自身が応答すべきだと強調する。古代のユダヤ人のように建物としての神殿を絶対視していないからといって、問題が解決するわけではない。私たちの心と教会共同体の中には、いつの間にか「アンナスとカヤパ一族」のような病理的構造が潜んでいないだろうか。教会が組織化され、大規模化されるほど、あるいは長い伝統をもつ教会であればあるほど、個人や機関の利害関係が絡み合い、世襲や財政問題、権力構造の問題が生じやすい。こうした現実の前で、イエス様が神殿を覆された決断と「わたしの父の家を強盗の巣窟にするな」と仰せられた燃える思い、そして「この神殿を壊せ。わたしは三日で建て直す」という挑戦的メッセージをどのように心に刻むべきだろうか。

張ダビデ牧師は、この問いに対する答えとして「十字架中心の霊性」を説く。イエス様が「神殿というご自身の肉体」を壊されることによって私たちに真のいのちの道を開いてくださり、その道はすなわち自己中心的な罪性を十字架に付けて、隣人と和解し、愛の仕えに献身し、福音の慈悲と自由を実現する生き方へと明らかにされる。十字架はイエス様が最も惨たらしい方法で殺された事件だが、その中にある「ご自身を空しくする愛」は、ついには復活と聖霊降臨へと繋がり、新しい時代を切り開いた。このことを黙想しながら生きる教会であれば、もはや「石の神殿」を建ててそこから自分の利益をむさぼる形態にはならず、むしろ世のただ中でキリストの犠牲と赦しを実践する共同体となるだろう。信仰とは礼拝堂に集まって礼拝をささげることを越えて、人生のあらゆる領域において「神殿を壊せ」と仰せになった主の道―すなわち自己を捨てるへりくだりと愛の仕え―を歩むことである。

さらに「神殿を壊せ」というメッセージは、今日の個人レベルでも深い響きをもたらす。だれしも心の中に「自分のもの」と思いこんでいる絶対不可侵の領域があり、これがすなわち各自の「神殿」となる。それは高慢であったり、物質に対する執着や自己欲望であったり、あるいは家族や民族、国家への過度な自己意識である場合もある。張ダビデ牧師は、そうした心の奥に根をおろした「自己の神殿」を打ち砕かない限り、イエス様が模範として示された十字架の精神を受け入れられないと考える。イエス様がアンナスの家に引き立てられ、カヤパや書記官、パリサイ人たちの前で裁判を受け、やがて十字架の死を迎えられたのは、単に彼らの体面や宗教的慣習を傷つけたからではなく、「おまえが握るその誤った神殿を捨て去れ」と明確に教えられたからであった。だからもし私たちが教会の中だけで信仰生活をしているように見えながら、実は自分の内なる「神殿」は手放さないまま、他人を裁いたり、自分の教理を宇宙の中心であるかのように押しつけるなら、イエス様を十字架につけた人々と大差ない存在になってしまうのだ。

こうしてヨハネの福音書は序盤(2章)でイエス様の神殿清めと「神殿を壊せ」という言葉を配置し、後半(18-19章)でイエス様が実際に逮捕され苦難を受けられる場面と結びつける。これは読者に「なぜイエス様は捕らえられたのか、何と対決し、何のために死なれたのか」という問いを自然に投げかけるように仕向ける構成である。ヨハネはアンナスに引き立てられた理由や、大祭司が弟子たちやイエス様の教えについて尋ねる理由、ステパノの死と似通った罪状など、その背後に潜む宗教権力の本質を詳細に描き出しつつ、同時にイエス様が新たに成し遂げようとされる神の救いこそ、聖霊によってもたらされる「新しい神殿」の建設だということを強調している。最終的にイエス様の肉体が壊されること、すなわち十字架で死なれることによって、復活とともに聖霊による新しい時代が開かれ、その聖霊のうちにだれもが神へ近づける道が用意された――これがヨハネ福音書の結論なのだ。

張ダビデ牧師は、説教においてこの福音のメッセージを過去の歴史的事実や「イエス様が為された偉大な業」としてだけではなく、今の私たちの生活や今日の教会の現実にどう具体化するかを深刻に問いかけるべきだと言う。多くの教会がいまだに人々の目に立派に映る建物を建てることに熱心で、ときにその内部で世俗的価値がはびこり、教権闘争や財政不正、派閥や分裂などにまみれることがある。これは2000年前のエルサレム神殿と少しも変わらない姿かもしれない。だからこそ「神殿を壊せ」というイエス様の言葉は今も私たちを不愉快にする。しかしその不愉快さの中にこそ本当の転回、すなわち悔い改めが起こるなら、教会は真の「祈りの家」「神に出会う空間」として生まれ変わり得る。新生は個人でも同様である。信仰生活が長くても、自分の自我を一度も壊してみたことがないのなら、「神殿という肉体」を壊されて復活されたイエス様の道をまだ歩んでいないのだ。真の福音は単なる信条や知識にとどまらず、自分の欲望と高慢によって築き上げた「神殿」を十字架に下ろす決断によって具体化される。

これに関連して張ダビデ牧師がしばしば引用するのは、エペソ2章の「和睦(平和)」の概念である。パウロは「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにされた。細則にわたる戒めの律法を廃棄された。これは二つのものをキリストのうちで新しい一人の人に造り上げて平和を実現するためだ」(エペソ2:14-15)というように語っている。主ご自身が一つにするために自らを犠牲にされ、その結果として宗教的障壁、人種的差別、身分の違いなどが取り払われたということだ。ゆえに教会の中で互いに争い、分裂する様子、あるいは世の真っ只中で絶えない紛争の姿は、イエス様がご自身の体を裂いて開いてくださった和解の道を踏みにじる行為である。「なぜあの人たちと和解しなければならないのか」と不満を漏らすかもしれない。しかし十字架のメッセージは「主がまず壊されることによって」誰も近づくことができなかった神が私たちに近づいてくださり、また敵対していた者どうしの壁が取り払われる可能性が開かれたということである。ゆえに結局、「神殿を壊せ」という主の要請は「あなたもまた壊されなさい。キリストがあなたのために犠牲となられたように、あなたの中にある排他性と高慢、不義な構造を捨て去り、相手を受け容れなさい」という命令と変わらない。

また聖霊の時代が開かれたという点を忘れてはならない。私たちが本当にイエス様の道を歩もうとしても、自分たちの力だけでは不可能である。初代教会も、復活された主を裏切らないと決心しながら、いざ「最後までわたしに従えるのか」と問われると逃げ出し、イエス様が捕えられる瞬間に散り散りになった弟子たちだった。しかし使徒の働き2章で聖霊が下るやいなや、彼らは大胆に福音を宣べ伝え、過去にあれほど恐れていた宗教指導者たちの前でも後退せず、イエス様の十字架と復活を伝え始めた。ついには命の危機さえも甘んじて受け、「私たちは見たこと、聞いたことを話さないわけにはいきません」(使徒4:20)と告白したのである。これは聖霊が臨まなければできることではなかった。張ダビデ牧師は「神殿を壊せ」との言葉と「聖霊の降臨によって開かれる新たな神殿」を切り離して考えてはならないと言う。律法体制を崩し、制度的神殿を超える道が開かれたのは、最終的に主が十字架上でご自身の肉体という「神殿」を壊されて復活され、それから聖霊を注がれたからである。したがって私たちも主の後を追うとき、聖霊を求め、聖霊の力に頼ってこそ「新しい神殿」を生きることができる。人間的な決意や努力だけではアンナスやカヤパのような世の腐敗、あるいは内面に根ざした欲望に打ち勝てない。聖霊が私たちの神殿を壊し(すなわち自己中心性を捨て)、主の望まれる愛と和解、仕え合う共同体を建て上げるよう助けてくださるという信仰が必要なのである。

張ダビデ牧師は、教会がこの十字架中心の福音と聖霊の働きに真に捕えられるとき、もはや「偽りの宗教」の権力や経済的利害に縛られず、全世界を包み込む「神の神殿」として拡張されるのだと強調する。この神の神殿は石で築かれた建物ではなく、イエス様の血潮によって贖われた私たち一人ひとりと共同体の中に宿る霊的実在であり、その中ではあらゆる民族、階層、男女の奴隷、老若問わず差別なく主の御名をあがめて生きる新たな国が現れる。実際、初代教会が黒人、白人、異邦人、ユダヤ人、男性、女性、奴隷、自由人がみな等しく一つの席でパンを分かち合って集まったのは、1世紀当時の文化からすれば信じられないことだった。しかしそれこそが十字架が打ち壊した障壁の結果であり、聖霊が成し遂げられた奇跡であった。今日の教会もまたその道を歩み続けなければならない。制度的神殿や人間の利己心と傲慢によって築かれた構造、あるいは宗教的形式ばかりを追い求める信仰を壊し、キリストにあって血を流すことのない兄弟愛と相互ケアの教会へと成長していかねばならない。

しかし残念ながら、教会史には「神殿を建て直す」という名目のもとで実際には人間の欲望を築き上げてきたケースが無数にあった。教権や世襲、富の蓄積、教会内部の派閥や争い、世の権力との癒着などが繰り返されてきた。これらは「神殿を壊せ」と仰る主の御声を拒む行為である。またある個人においても、信仰生活を送りながら依然として自分の古い姿や世の価値観を手放さないことがある。表向きには礼拝を捧げ、奉仕をし、「信仰者」を自称していても、実際には自己を否定せず、愛ではなく批判や線引きばかりに陥ってしまうかもしれない。そのような場合、主の言葉「あなたがたの中にある神殿を壊せ。そして三日で再び建て直す」という警告が迫る。三日目の復活はイエス様の権能であり、私たちに与えられる「新たに出発する可能性」だが、その前提としてまず壊されなければ建て直されない。いまだ倒されていないものを再建することはできないからだ。張ダビデ牧師は、この原理は教会改革にも各個人の内的成熟にも当てはまると見る。堕落した教会は徹底的に悔い改め、既存の欲望や構造的矛盾を打ち壊さねばならないし、個人としても自分が握りしめている罪性を完全に主の前に差し出さなければならない。そうして初めて復活の力が教会と人生を新たに建て上げるのである。

「神殿を壊せ」という宣言は、ヨハネ福音書において非常に挑戦的な本文であるが、教会論と救済論、さらに聖霊論を深く統合する中心的な一節とも言える。イエス様がアンナスとカヤパの手に渡されて裁かれながらも「私は公然と世に語った。何も隠れて行わなかった」(ヨハネ18:20)とおっしゃることができた理由は、主がひとときもご自分の利益や野望のために真理を隠さなかったからである。主は最後まで十字架へと進む道を通して真の神殿を建ててくださった。その神殿は「あなたがたの体は聖霊の宮」(Ⅰコリント6:19)というパウロの告白に受け継がれ、「互いに愛し合うならば、それによってすべての人はあなたがたが私の弟子であることを知る」(ヨハネ13:35)という主の教えによって完成される。建物でも制度でもなく、自己犠牲と愛において開かれる共同体こそが神の国の徴である。

張ダビデ牧師は、この教えを韓国教会や世界の教会が新たに悟るべきだと説く。教会世襲の問題や財政問題、成長至上主義や教権争いなどは、エルサレム神殿を通してただ自己を拡大しようとしたアンナスとカヤパの精神と少しも変わらないと指摘する。さらには個人レベルでも、自分の信仰の目的が本当に主に倣い福音を伝え愛を実践することなのか、それとも宗教的慰めを得て宗教という枠組みを利用し、自分の満足や名誉を求めることなのかを省みるべきだと言う。もしこの省察がなければ、宗教という看板のもとで私たちは平気で他人を裁き、あるいは自分より弱い人々を抑圧し、世の権力と妥協することもあり得る。しかし真の福音は常に「私は死んでキリストによって生きる」という十字架の位置を指向し、その結果として聖霊の豊かな実を結ぶようになる(ガラテヤ2:20、5:22-23)。神殿を壊せという御言葉は、すなわち「あなたもその十字架に加わりなさい。そして復活の希望をつかみなさい」という招きであり、この道を歩む人々は、結局、世の既得権や腐敗した体制を喜ばせることはできない。というのも光は闇を暴き、真実は偽りの宗教をさらけ出すからである。したがって犠牲や苦難、さらには殉教の道が続くかもしれないが、まさにそこに神が備えられた真の命が花開く。教会史が証言しているように、ステパノの殉教はキリスト教迫害の幕開けとなったが、同時に散らされた弟子たちがより広い地へ福音を伝えるきっかけにもなった(使徒8:1-4)。このように教会は常に「神殿を壊せ」という主の言葉に対する世の抵抗を受けながらも、そのたびに十字架を握り、聖霊の力によってリバイバル、新たな創造の道を歩んできたのである。

それゆえ私たちも「なぜイエス様は当時の宗教権力と衝突し、何のために死なれたのか」という問いから目を背けず、その答えが「神殿を壊せ」という破格的メッセージと、「律法を改変しようとしている」という誤解を招くほどに愛と慈悲の福音を宣べ伝えたことによるのだと覚えていなければならない。愛は律法よりも大きく、慈悲は裁きに勝つ(ヤコブ2:13)という福音の宣言こそイエス様の教え全体を貫くものであった。そしてイエス様は「あなたがこれを理解し、実践しなさい」と促される。もし私たちがこのメッセージを真に受け入れるなら、教会内にある無数の壁が、世の差別や憎しみが、また自分の中の頑固さや欲望が壊されるだろう。そして主の約束通り、三日目に再び建てられる「新しい神殿」、すなわち十字架と復活の共同体がこの地に現れるのである。

張ダビデ牧師は、これこそが教会の未来であり、同時に教会が過去から引き継ぎ続けてきた本質的な召しであると解釈する。教会は建物でも特定宗派でも人間的権力でもなく、十字架を通してイエス様の自己犠牲を生きる人々の集まりだ。この人々は社会的弱者を排斥するどころかむしろ受けとめて仕え合い、互いの違いを超える愛によって一致を示す。現代の教会が時にこの召しを忘れているとしても、聖霊の働きは今なお拒むことのできない力で教会を新しく形作っていく。教会の使命とは、世の価値観を神殿の中にそのまま取り込み、成功と繁栄を礼賛することではなく、むしろ「神殿を壊せ」という主の宣言通り、世のあらゆる障壁と不義を取り払って新しい創造の道を切り開くことである。そのためには私たちの祈りが天におられる神を「利用」する道具ではなく、自分の内なる神殿を打ち壊して神の御心に完全に服従する姿勢へ向かう必要がある。イエス様が清められた神殿こそ「万民の祈りの家」(マタイ21:13、イザヤ56:7)であり、そこでは既得権勢力や権威主義的秩序ではなく、徹底して身を低くし、疎外された者を高くされる神の正義と憐れみが流れている。

ヨハネ2章と18章を中心に、「神殿を壊せ」というイエス様の言葉が当時の宗教権力者たちとの対立を引き起こした直接の理由であり、なぜイエス様が捕らえられ苦しまれ、十字架につけられたのかを理解する重要な鍵となる。またヨハネ8章の姦淫の女に対するイエス様の態度や、使徒7章でステパノが「この人が神殿を壊そうとしている」との罪状で石打ちにされて殉教する場面などは、律法的・宗教的制度の絶対性に挑み、愛と慈悲、そして聖霊の自由を宣言する福音がいかに大きな反発を呼び起こすかを劇的に示している。しかしイエス様はそうした反発と拒否の中でも最後まで十字架を負うことによって、究極的に真の神殿と新しい時代を開かれた。今日の教会と信徒は、この出来事を教会史上の過去ではなく生きた現実として受け止めなければならない。「神殿を壊せ」という御言葉は決して昔の話ではなく、今の私たちに対してもなお宣言されている。イエス様の体のように私たちの内なる「自己中心の神殿」を壊すとき、主は私たちの共同体の中に新しい神殿を建ててくださる。その神殿こそ「互いに愛し合え」という戒めのうちで一つとなり、聖霊に従って歩み、貧しい人や病む人を顧みるイエス様の教会であり、「私がキリストとともに死に、そして生きる」福音の力が具体化される現場でもある。

張ダビデ牧師は、この核心を捉えて多くの説教や著作を通して繰り返し強調してきた。いくら教会が成長し、素晴らしい建物を建てても、キリストの十字架の精神と聖霊の自由がなければ、そこはすでに死んだ神殿である。反対に目に見える建物が立派でなく、人数が少なくても、そこに十字架の愛が実践され聖霊の炎が生きていれば、そここそ神が住まわれる新しい神殿である。結局、大切なのは建物ではなく人が神殿であり、私たちの中でイエス様の道が生き生きと働いているかどうかにかかっている。私たちはエルサレム神殿を宇宙の中心と盲信していた昔のユダヤ人たちの姿から教訓を得なければならない。自己中心性と優越意識、形式的な宗教性に満ちると、いざ神が遣わしたメシアさえ拒み、「神殿を壊せ」という言葉を冒涜とみなし死へ追いやる悲劇を招く。それがかつてのユダヤ指導層の姿であり、私たちも同じ落とし穴に陥る可能性がある。ゆえに「神殿を壊せ」という主の招きに対して敏感に目を覚ましていなければならない。私の心や教会、そして教団やキリスト教文化のうちに誤って築かれた「偽りの神殿」はないかをよく調べ、もしあるなら素直に従って壊さなければならない。そしてその場所に主が再び築いてくださる、三日目の復活とともに始まる新しい神殿を待ち望むべきである。

イエス様が示してくださった道は、自己犠牲とへりくだり、そして聖霊のうちに開かれる普遍的な愛であった。それを見習うことこそ信徒に対する最も本質的な要請であり、教会が存在する理由でもある。もし私たちが福音の核心を見失い、外面的な華やかさばかり追求し、制度的神殿体制に安住するならば、2000年前の腐敗した宗教権力者たちと変わらずイエス様を拒む道を行くしかない。しかし「神殿を壊せ」と仰る主の御声に耳を傾け、自己を否定し十字架を負って、聖霊の力に頼って愛と赦し、仕え合いを実践するなら、そこに驚くべきいのちの働きが花開く。それこそが「新しい神殿」の姿である。張ダビデ牧師はこのメッセージを繰り返し強調しながら、信徒と教会指導者たちが真に自己献身と悔い改め、そして聖霊の働きを切望する姿へ進むよう訴えてきた。彼がいつも強調するのは「主が私たちに下さった恵みはあまりにも大きく、その恵みの中で私たちもまた自己を否定しなければならない」ということである。自己中心性を手放すことは決して容易ではないが、十字架を通してイエス様がすでにその道を開いてくださり、聖霊が共にいてくださると約束されているからこそ、私たちはその道を歩むことができるのだ。

ヨハネ2章の神殿清めと「神殿を壊せ」という宣言、そしてヨハネ18章(アンナスとカヤパの陰謀、イエス様の逮捕と尋問)へと続く流れは、なぜイエス様が十字架につけられるしかなかったのか、何が真の神殿であり、礼拝と律法の本質は何であるのか、そして神の憐れみと愛がいかに偉大であるかを端的に示している。イエス様が復活されることによって、その驚くべき福音はあらゆる障壁を打ち砕き、差別なく聖霊によって異邦人とユダヤ人を一つに結びつける新しい共同体を誕生させた。張ダビデ牧師をはじめ多くの神学者や牧師たちは、教会がこの福音の精神を完全に回復すれば、かつてのようなリバイバルといのちの働きを再び体験できると確信している。教会史において、真に十字架を握りしめ、聖霊の御臨在を求めるたびに、常に新しい覚醒と改革が起こってきたからだ。ゆえに「神殿を壊せ。わたしは三日でこれを建て直す」という御言葉は決して破壊的な宣言ではなく、回復と再創造の宣言である。主がご自分の体を裂いて死なれることでその宣言を成就し、復活と聖霊降臨をもってそれを完成され、今や私たちにもその道を辿りなさいと招いておられる。それこそが福音の核心であり、教会の究極的使命である。そしてこの道において私たちはイエス様のように宗教権力者の反発や世の拒否に直面するかもしれないが、やがて主がくださる永遠の命と平和にあずかることになるだろう。「神殿を壊せ」との御言葉を今改めて心に刻み、自分の内と教会の中にどんな神殿を保持してきたのか、そして主の新しい神殿に入るために何を手放すべきかを深く黙想しなければならない。これは十字架の道を辿るすべてのキリスト者が日々悩み、決断すべき事柄であり、その道こそイエス・キリストの道なのである。

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