心灵的割礼与骄傲——张大卫牧师

1. 关于罪与审判的公平性:外邦人、犹太人,以及今日的教会 《罗马书》第2章紧接着第1章对“外邦人所受的愤怒”的论述,正式开始探讨“犹太人所受的愤怒”。保罗在第1章已经揭露了外邦世界的罪恶:外邦人不愿将神放在心上,沉溺于淫乱、不义、贪婪和偶像崇拜的生活,于是神的愤怒降在他们身上。然而到了第2章,矛头却突然指向了犹太人。犹太人自诩为“神的选民”,坚信神对外邦人的审判与他们无关。但保罗却宣告:“你这论断人的,无论你是谁,也无法推卸责任。你在论断别人的时候,就定了你自己的罪;因为你这论断人的,自己却犯同样的事。”(罗马书 2:1)也就是说,并非因为是犹太人就能例外;那些一边论断别人、一边却犯相同罪行的人,毫无辩护余地,必然会受到审判。 张大卫牧师在这里强调:“属灵的骄傲和自以为义的态度,不仅是犹太人的问题,在今日自称信耶稣基督并参加教会的我们中间,同样存在。”我们常常在福音里宣称自己已经得救,也常以教会内外的人为对象进行教导和评判。然而,当我们真正省察自己内心时,却很难信誓旦旦地说自己就比那些人更清洁无瑕。主耶稣在登山宝训里也告诫道:“你们不要论断人,就不被论断;因为你们怎样论断人,也必怎样被论断。”(马太福音 7:1-2)归根结底,无论是犹太人还是外邦人,罪与审判的标准都一样,且审判是根据神的公义而进行。神并不偏待人;血统、宗教制度或宗教热心都不能免除罪责,这就是保罗要传达的核心观点。 在这个背景下,保罗深入探讨了犹太人引以为傲的“律法”和“割礼”。犹太人因得到律法、并通过肉身割礼归属神的约之群体而自夸,觉得自己与外邦人截然不同。然而保罗却宣告:“原来在神面前,不是听律法的为义,乃是行律法的才得称义。”(罗马书 2:13)他一语道破,仅仅拥有或形式上遵守律法,并不足以使人得称为义。若没有“心灵的割礼”,没有真正的悔改,纯粹的宗教自负只会使罪与审判的问题更加严重。因此,他强调:“即使受了肉身割礼,但不遵守律法,也等于未受割礼;反之,不受割礼却遵行律法精神的人,比起受割礼却违背律法的人更加可贵。”(参见罗马书 2:25-27) 张大卫牧师将这一论点应用到当今教会的实际处境。即便我们参加教会、受洗礼、每周敬拜并承担职分,甚至热心服事和奉献,若没有真正在生活中彻底实践“爱、怜悯、饶恕和圣洁”这些神话语的本质,那么所有外在的行为在神面前都毫无可夸之处。仅仅以“我从不缺席礼拜”“我献上十一奉献”“我在教会里非常热心”这些外在的宗教表现,并不能证明我们内在也正直公义。或许会得到人的称赞,但神并不看外貌或形式。保罗在《罗马书 2:11》所宣告的“神并不偏待人”,不仅是对过去的犹太人说的,对今天所有自称信仰的人同样是一记警钟。 更进一步,保罗指出,即使是外邦人,如果他们按着自己的良心去行善,即便没有明文律法,也能自觉遵守“内在之法”(罗马书 2:14-15)。人受造之初便内置了“本性中的律法”,可用来分辨善恶。所以,那些说“我不信基督,不懂这些”而想为罪狡辩的人,也无法逃避。人人心里都有善恶是非的感知,违背良心时也会体验到“自我控诉”和“内在的定罪”。换言之,无论是犹太人、希腊人,抑或今天参加教会或不参加教会的人,统统站在神公正的审判之下。张大卫牧师在这里强调:“福音的力量在于让我们认清自己是罪人,并引领我们悔改,最终活在恩典与宽恕之中。”然而,若将这恩典当作“即使继续犯罪也没关系”的放纵或自我合理化,那就本末倒置了。正确的做法是让恩典成为“我们真正悔改、迈向善的下一步”的动力。 因此,《罗马书》第2章所揭示的核心内容可以总结如下:第一,不论外邦人还是犹太人,在神面前都没有例外;第二,仅拥有律法或进行某些宗教仪式并不能使人得以称义,神更看重实际生活中的顺服;第三,一切审判都在神绝对的公义之下进行。当我们将这一信息应用于当今教会时,首先要反省的是我们自己。张大卫牧师也多次根据“自以为站得稳的,须要谨慎,免得跌倒”(参见哥林多前书 10:12)的教导,勉励信徒应当时刻省察并悔改,唯有谦卑地倚靠神才是正道。 2. 灵性骄傲与不悔改的固执:对信徒更加严厉的警告 在《罗马书》第2章里,保罗严厉责备:“你这论断人的啊!”(罗马书 2:1)犹太人对自己的“神的选民”身份过于自信。他们自认为是亚伯拉罕的后裔,即便犯罪,也最终一定会得救。他们根据某些外传或伪经,诸如《所罗门的智慧书》中提及“神有丰盛的慈爱、忍耐和怜悯,最终会拯救他的儿女”,并将这话理解为对自己大为有利的保证,于是形成了“我们怎样犯罪都没关系,最终必然得救”的“属灵特权意识”。 如今的教会同样不乏这种病态现象。张大卫牧师对此发出警戒:“一旦灵性骄傲和自信过度,就会演变为不肯悔改的固执。”陷入这种状态的人,很容易不去深刻认罪自己的罪,反倒以“我已得救了”或者“我至少在教会里很热心”来为自己辩解。主耶稣在《路加福音》第18章“法利赛人与税吏”的比喻中也直截了当地揭示了这种心态:法利赛人向神自夸:“神啊,我不像外邦人或罪人那样,我又禁食又奉献。”但是耶稣却说:“倒是那税吏回家后比他更为义。”法利赛人的“自我义”遭到了耶稣的谴责。他虽然拥有敬虔的“形式”,却缺乏真正的爱和谦卑。像税吏那样承认自己是罪人,唯独仰赖神的怜悯,这种“心灵的贫乏”才是神所悦纳的敬拜与悔改的正确态度。 “属灵的骄傲”到极致,就会体现为“不肯悔改的顽固”(罗马书 2:5)。保罗指出,犹太人中普遍存在这一现象:他们在宗教上有许多特权和知识,却不愿承认内心深处的罪,只擅长论断别人;同时,随意滥用神的忍耐和慈爱,盲目地以为“多犯罪也会被饶恕”。保罗将其形容为“轻看神丰富的恩慈、宽容和忍耐”(罗马书 2:4)。神的恩慈与怜悯固然真实存在,但并不是纵容我们持续犯罪的理由,而是为我们悔改预留机会的“长久忍耐”。对此,张大卫牧师尖锐地指出,教会里很容易滋生这种自我欺骗式的心态。敬拜、服事和奉献都只是外在的信仰表现,一旦心里闪过“我这样已经够好了”的念头,就极易陷入属灵骄傲。特别是现代教会组织庞大、体系完善,只要在某个部门积极活动,就很可能错误地把“热心”与“自以为义”混为一谈。 保罗所说的“不肯悔改的顽固”(罗马书 2:5),还体现在人即使在被指出罪状时,依然不肯承认,继续为自己找理由。例如,一些人会说:“我这样做是有不得已的理由”,借此为自己的行为辩护,阻挡了内在的省察与认罪。也有人用“我比别人强多了”来凸显自己的相对优越,但神是查验人心、连隐秘之处都要审判的那一位(罗马书 2:16)。耶稣说:“我为审判到这世上来,叫不能看见的可以看见;能看见的反倒瞎了眼。”法利赛人在场时就反问:“难道我们也是瞎子吗?”耶稣回答:“你们若是瞎子,就没有罪了;但你们现在说‘我们能看见’,所以你们的罪还在。”(参见约翰福音 9:39-41)也就是说,那些自以为“看得见”,却看不见自身过犯的顽固之人,他们的罪才最严重。 对今日的信徒来说,我们也许比“在世上不认识神的外邦人”更可能对罪感到麻木。因为我们常说“神是我的父,我已信耶稣并得救”,反倒更不注重痛恨罪、悔改和警醒,而是在每次失败或犯罪时都用“反正我还有救”的理由来敷衍。可是保罗的观点非常明确:“因你顽固不化,不肯悔改,便为自己积蓄了愤怒。”(罗马书 2:5,意译)虽然神的爱无限,但若把神的爱和怜悯当作我们“反复犯罪的护身符”,那便是严重的不敬虔,总有一天会落在神公义的审判里。 张大卫牧师教导说:“悔改不仅仅是口头承认罪过,而是对自己罪性的深刻体认,并决意回转。”换言之,我们要时刻警惕,不要让神的恩典变成我们在道德上松懈的通行证。“我们要站立在恩典中,但一旦安于现状,或在恩典中自高自大,我们的信仰就会迅速退化。”《罗马书》第2章之所以对“自认相信的人”发出更严肃的警告,正是因为拥有福音、事奉教会、自诩认识神的人,理应承担更大的责任。因此,在论断别人之前,必须先省察自己,祈求圣灵帮助我们真正遵行神的道。唯有如此,才能结出真正的“信心果子”。 3. 心灵的割礼与真正的顺服:律法的本质与信仰的内在化 在《罗马书》第2章的末段,保罗对“表面的犹太人”和“内在的犹太人”进行对比(罗马书 2:28-29):“因为外在的犹太人不是真犹太人,肉身上的割礼也不是真割礼;唯有内在的犹太人,才是真犹太人。心里的割礼才是真正的割礼——在于圣灵,不在于文字;这样的人所受的称赞,不是来自人,而是来自神。”若将这里的“犹太人”一词延伸到今天,可以对应“教会成员、基督徒,或者自称信神的人”。保罗强调:不是表面加入了教会、拿到洗礼证书或遵行一些宗教仪式,就等同于真正的信徒;惟有真心敬畏神、以心灵跟随神旨意的人,才是“真以色列人”。 张大卫牧师借此指出:“信仰的本质必然要求‘心灵的割礼’,也就是内心真正的变化。”犹太人受割礼的确是“立约的标记”,却并非保证自己在神面前已经获得“属灵特权”。相反,割礼所象征的“圣洁、顺服、分别为圣”若不能落在日常生活里,就无法称得上是合神心意的犹太人。同理,今日信徒的洗礼、礼拜、服事、奉献固然是一种属灵外显,但这些形式本身并不会自动使我们称义。属灵的生命关键在于“我是否真正在神面前俯伏?是否真的活出爱?是否以顺服的步伐追求圣洁?” 保罗先前曾声明“神必照各人的行为报应各人”(罗马书 2:6)。这当然是建立在“唯有因信称义、因恩典得救”的新约核心教义之上。但若一个人的信心仅存于大脑知识或口头宣称,并不在生活中实践,那就和“死的信心”无异(参见雅各书 2:17)。因此,真信徒若真有“心灵的割礼”,就必然在神的旨意中顺服,追求圣洁与爱。保罗所警告的“结党纷争、不寻求真理、反而跟随不义的人,就要遭遇愤怒和震怒”(罗马书 2:8),在教会里同样适用。如果教会里充斥着党派之争、彼此攻讦、缺乏爱与饶恕,那么即便那群人也参加礼拜和宗教仪式,他们仍然不是“内在的犹太人”,也不是受了“心灵割礼”的人。 张大卫牧师在此多次提及“爱心的实践与道德责任”。耶稣基督所宣告的,并不是要废除律法,而是要将律法真正成全(马太福音 5:17)。其核心就是“尽心尽性尽意爱主你的神,并爱人如己”(马太福音 22:37-40)。但犹太人却只顾祭祀礼仪、节期、献祭和饮食等条规,却忽略了“公义、怜悯、信实这些更重的事”(参见马太福音 23:23)。对今日的信徒而言,如果我们也只热衷于各种教会活动、项目与程序,却在帮助贫困者、安慰受伤者、接纳边缘人士以及教会内外的弱势群体上漠不关心,就与当年只剩“外表敬虔”的法利赛人并无二致。 保罗说:“外邦人中也有人虽然没有律法,但照着良心行善,他们本身就是律法的要求在心中作证。”(罗马书 2:14-15,意译)那我们这些自称“在教会里、拥有真道”的人,更应该谦卑谨慎、竭力行善。若我们辜负了“心中的律法”,忽视良心的呼声,只在口头上宣告信仰、却在实际生活中行不义,那就正应了保罗所说:“不受割礼的人若遵守律法,岂不是要定你这有圣经、受割礼而犯律法之人的罪吗?”(参见罗马书 2:27,意译) 最终,《罗马书》第2章带给我们的核心教训是“信仰的内在化”。张大卫牧师也再三嘱咐:“真正的改变从心开始。外在的制度、仪式或热心,不足以得到神的称赞。唯有在圣灵里献上的敬拜、从心里呈上的祭物,以及对神话语的顺服实践,才是真正的割礼。”若没有发自内心的悔改与顺服,没有爱心的实践,即使表面看起来再像“信徒”,也只是“表面的犹太人”而已。我们真正应该渴慕的,是“来自神的称赞”(罗马书 2:29);惟有“在神面前正直谦卑、敞开心灵的人”,才能得着这福分。 保罗的总体论点是:无论犹太人还是外邦人,神都以同样公义的标尺来审判。任何宗教特权或仪式功劳,都不能成为免罪的凭据。我们唯独“因信而蒙恩得救”,但这信心必须透过真正的顺服与爱来显明。唯有这样,我们才能成为领受“心灵割礼”的人。张大卫牧师据此警示:“耶稣基督的福音固然是通往永生与爱的道路,但倘若我们只是口里说信,却用它来论断别人,或者只专注于宗教形式,福音就会成为暴露我们罪恶并定我们罪的准绳。”因此,我们要每日反省灵魂,真诚地在神面前悔改,立志顺服神的话语。这才是我们从《罗马书》第2章当中应当紧紧抓住的精髓。 最后,保罗说“或彼此控告,或彼此辩护,这些事都显明律法是刻在他们心里的”(罗马书 2:15),也就是每个人心底都知道自己到底是怎样的人;并且在神面前,一切隐秘之事都会暴露无遗(罗马书 2:16)。无论我们在教会中拥有怎样的服事、地位或成就,神最终看的,是内心的真诚。所以,“我是否真正受了心灵的割礼?还是只是在外表上假装自己受了割礼?”这一问题在今天依然非常迫切。正如张大卫牧师所言,唯有当我们能诚实地回答这个问题,才算真正进入了福音的大能之中,与神有更深的交往,并且在生活的方方面面结出“善的果子”。 综上所述,我们依照张大卫牧师的教导,将《罗马书》第2章分成三大主题进行探讨:其一,犹太人与外邦人都在罪与审判前无例外;其二,灵性骄傲与不肯悔改的固执,对自称信徒的人带来更严厉的警告;其三,“心灵的割礼”才是真顺服与爱的实践,也才是信仰的核心。对于我们日常生活而言,最重要的是“在神面前真实地敞开自己,顺服祂的道,并结出爱的果子”。面对保罗“神必照各人的行为报应各人”(罗马书 2:6)的宣告,我们能做的,唯有谦卑地悔改、依靠主的恩典而更新。而这条路,正是主耶稣借着十字架与复活为我们开辟的福音之路,也是张大卫牧师不断劝勉我们要走的“真理之路”。

心の割礼と高慢――張ダビデ牧師

1.罪と裁きに対する公平性:異邦人とユダヤ人、そして今日の教会 ローマ書2章は、「異邦人に対する神の怒り」を取り上げたローマ書1章に続き、「ユダヤ人に対する神の怒り」を本格的に扱う章です。パウロは1章で異邦世界の罪悪を告発しました。異邦人は神を心に留めることを嫌がり、淫行や不義、貪欲や偶像礼拝に満ちた生活を送り、その結果、神の怒りが彼らの上に臨むと宣言したのです。ところが2章に入ると、突然その矢がユダヤ人に向かいます。彼らは自分たちを「選民」と自負し、異邦人が受ける神の裁きは自分たちには関係ないと考えていました。ところがパウロは「だからこそ、ほかの人を裁く人よ、だれであろうとあなたには弁解の余地がありません。あなたは他人を裁くことで自分自身を罪に定めているのです。裁くあなたが同じことを行っているからです」(ローマ2:1)と宣言します。つまり、ユダヤ人だからといって例外にはならず、「他人を裁きながら、自分も同じ罪を犯している者」は弁解できないまま裁きを受けることになる、というのです。 張ダビデ牧師は、この箇所から「霊的な高慢や、自分は正しいとする態度はユダヤ人だけの問題ではなく、今日、教会に通いイエス・キリストを信じると告白している私たちにも十分当てはまる」と強調します。私たちは福音によって救われたと告白し、しばしば教会の内外にいる人々を教えたり、批判したりすることがあります。しかし、内面をよく省みると、彼ら以上に罪がないとは言いきれません。イエス様も山上の説教(マタイ7:1-2)で「人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないだろう。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれるからである」とおっしゃいました。結局のところ、罪と裁きにおいてはユダヤ人であれ異邦人であれ、みな同じ基準のもとに置かれており、裁きは神の義によって行われます。パウロの主張は「神はえこひいきなどなさらない。血統や宗教制度、宗教的熱心さだけで罪の責任が免除されることは決してない」ということです。 この文脈の中でパウロは、ユダヤ人たちが誇りの根拠としていた「律法」と「割礼」に鋭く切り込みます。ユダヤ人は自分たちに律法が与えられ、肉体的な割礼を通して神の契約の共同体に属しているのだと信じていたため、自分たちは異邦人とは区別された生活を送っていると誇っていました。しかしパウロは「律法を聞く者が神に義とされるのではなく、律法を行う者が義とされるのです」(ローマ2:13)と宣言し、単に律法を所有していることや形式的に守っているだけでは、義と認められないとはっきり言います。「心の割礼」がなく、「悔い改め」が伴わない宗教的な誇りは、かえって罪と裁きをより深刻にするだけです。そこで「肉に割礼を受けていても律法を守らないなら、それは無割礼と同じことであり、逆に無割礼の者でも律法の精神を守るなら、割礼を受けている者より優れている」と強調します(ローマ2:25-27)。 張ダビデ牧師は、この論点を今日の教会の現実にも当てはめます。教会に通い、洗礼を受け、礼拝を捧げ、何らかの役職を担い、ときには献身や奉仕に熱心であったとしても、本当に大切な御言葉の本質――「愛、慈しみ、赦し、聖なる生き方」――を徹底して自分の生活に実行しないならば、それらの行為は決して神の前で誇りにはならない、というのです。単に「私は礼拝を欠かさない」「私は十分の一献金をしている」「私は教会の中で熱心に奉仕している」といった外面的な信仰が、内面までも義であることの証拠とはならないのです。人からは称賛されるかもしれませんが、神は人の外見や形式によっては判断なさいません。「神は人を外見で判断なさらない」(ローマ2:11)というパウロの宣言は、過去のユダヤ人だけではなく、今を生きるすべての信仰者への警告として胸を打ちます。 さらにパウロは、異邦人であっても「良心」に従って善を行おうと努める者であれば、実際に律法がなくても自ら良心の律法を守ることができると言います(ローマ2:14-15)。人間の良心は、創造の時から内側に与えられている「本性的な律法」であり、それによって罪を見分けることができるのです。つまり「私はキリスト教の信仰を持っていなかったので知らなかった」という言い訳は通用しないという意味です。すべての人は、心のうちに善悪を分別する本能を持ち、それを破れば「自らを告発する思い」と「内的な罪の意識」を経験します。要するに、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、そして現代の教会に通う者であろうとそうでない者であろうと、誰もが神の公平な裁きのもとに立たされているのです。張ダビデ牧師は、ここで「福音とは私たちが罪人であることを悟らせ、悔い改めへと招き、ついには恵みと赦しのうちに生きる力だ」と力説します。しかし、その恵みが「罪を犯し続けても大丈夫」という放縦や自己正当化につながってしまってはなりません。むしろ恵みは、「自分の罪を悔い改め、善へと一歩ずつ進むように促す原動力」となるべきなのです。 結局、ローマ書2章が示す核心は次のように要約できます。第一に、異邦人もユダヤ人も神の前に例外はなく、第二に、律法そのものや宗教的儀式だけで義とされるのではなく、実際の生活における従順が求められ、第三に、そのすべての判断は神の絶対的な公義のもとで行われるということです。このメッセージを適用するにあたり、今日の教会にいる私たち自身がまず振り返る必要があります。張ダビデ牧師も「だから立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(第一コリント10:12)の御言葉を根拠に、常に自分を省みて悔い改め、へりくだって神だけを頼りにすべきだと繰り返し強調しています。 2.霊的高慢と悔い改めない頑固さ:信じる者により厳しく臨む警告 パウロはローマ書2章で「他人を裁く人よ」と手厳しく非難します(ローマ2:1)。ユダヤ人には「神の選民」という認識が極めて強くありました。彼らはアブラハムの子孫であるゆえに、たとえ罪を犯しても究極的には救われるだろうという漠然とした確信を抱いていたのです。彼らが頼りとしていた外典(偽典)の一つ「ソロモンの知恵」には、「神は恵み深く忍耐強く、憐れみに富んでおられ、その子らを最終的には救われる」というような趣旨の記述があります。ユダヤ人たちはこの言葉を自分たちに都合よく解釈し、「自分たちはどんな罪を犯しても結局は救われる」といった“霊的特権意識”を形成していったのです。 こうした病理的な現象は、今日の教会の中でも十分に見られることかもしれません。張ダビデ牧師はこれを指して「霊的な高慢と自己確信が行き過ぎると、やがては悔い改めない頑固さに陥る危険がある」と警告します。そのような状態に陥ると、自分の生活や心の中に入り込む罪を痛烈に認めるよりも、「自分はすでに救われているから大丈夫だ」とか「それでも私は教会で熱心に活動している」と自分を正当化しがちになります。イエス様はこの態度を、ルカ18章の「パリサイ人と徴税人」のたとえを通して明確に指摘されました。そのたとえでパリサイ人は「神さま、私は異邦人や罪人のようでなく、断食や十分の一献金もしています」と誇ります。しかしイエス様は「むしろ徴税人のほうが義と認められて帰った」と語り、パリサイ人の“自己義”を厳しく責められました。パリサイ人には敬虔の“形式”はありましたが、その内側に本質的な愛とへりくだりが欠けていたのです。徴税人のように自らを罪人だと告白し、ただ神の憐れみにすがる「霊的な貧しさ」こそが、神に受け入れられる礼拝の姿勢であり、悔い改める心といえます。 「霊的高慢」の極端な現れは、「頑固さ」と「悔い改めない心」として現れます(ローマ2:5)。パウロは、この問題がユダヤ人の中に蔓延していたと指摘します。彼らは宗教的に多くの特権と知識を持っていましたが、内面に深く根を張る罪性を認めようとせず、他人を裁くことにだけ長けていました。その一方で、神の寛容と慈しみを誤用し、「もっと罪を犯しても赦される」と安易に考えてしまったのです。パウロはそれを「神の慈愛と寛容と長い忍耐の富を軽んじる」(ローマ2:4)と表現します。神の与えてくださる恵みと憐れみは確かに存在しますが、それは罪を放置して罪に安住させるためのものではありません。むしろ罪から立ち返るチャンスを与えるための、神の長い忍耐であると悟らねばならないのです。 張ダビデ牧師は、教会の中にいつでも潜みやすいこのような自己欺瞞的な態度を鋭く指摘します。礼拝や奉仕、献身は外面的に表れる信仰生活の姿ですが、「私はこれだけやっているから大丈夫」という思いが入り込んだ瞬間、霊的高慢に陥りやすくなります。特に現代の教会は組織が大きく体制が整っているため、どこかの部署で熱心に活動しているうちに、自分は正しいと錯覚しがちなのです。 またパウロが言う「悔い改めない頑固さ」(ローマ2:5)は、罪を指摘されてもそれを認めず言い訳する姿となって表れます。たとえば「私がこれをせざるを得なかった理由がある」などと、自分の行為を正当化し始めると、内面的な省察や罪の告白が妨げられてしまいます。あるいは一部の教会員は「それでも自分は他の人よりマシだ」と、相対的な優越感を持ちます。しかし神は人間の隠れたことまで裁かれるお方です(ローマ2:16)。イエス様が「わたしは見る者を見えなくし、見えない者を見えるようにするために来た」(ヨハネ9:39-41)と言われたとき、そばにいたパリサイ人たちは「私たちも盲目だというのか」と反発しました。するとイエス様は「もしあなたたちが盲目であったなら罪はなかっただろう。だが『私たちは見える』と言っている以上、あなたたちの罪は残るのだ」と返されました。つまり、自分の欠点をまったく見ずに「自分は見えている」と思い込んでいる者の罪が、最も深刻だということです。 今日の信仰者たちは、もしかすると神を知らない世の異邦人よりも、罪への恐れが鈍感になっているかもしれません。「神が私の父であり、私はすでにイエスを信じて救われているのだから」という理由で、いざ罪を憎み、悔い改めるよりも、何度つまずいても「大丈夫だろう」と済ませてしまう危険があります。しかしパウロの論点は明白です。「あなたがたの頑固さと悔い改めない心のゆえに、怒りが積み上げられているのだ」(ローマ2:5)。神の限りない愛は紛れもない事実ですが、その愛と憐れみを「罪を繰り返すための盾」にしてしまうことは重大な不敬虔であり、いつかは神の正しい裁きに行き着くことを忘れてはなりません。 張ダビデ牧師は「悔い改めとは、単に罪を告白するだけの行為ではなく、自分の罪性を痛烈に悟り、方向転換することだ」と教えます。言いかえれば、キリストが与えてくださった恵みが「私たちを道徳的に緩ませる免罪符」にならないよう、常に警戒しなければならないということです。「恵みのうちに立ち続けるべきだが、その恵みに安住したり高慢になる瞬間、私たちの信仰は急激に退行する」という点を忘れてはなりません。ローマ書2章が「信じていると言う者たち」を、より深刻に告発している理由はここにあります。福音を持ち、教会を仕え、神を知っていると自負する者には、実はさらに大きな責任が伴います。だからこそ、他人を裁く前にまず自分を顧みて、御言葉どおりに生きようと決断し、聖霊の助けを切に求める必要があるのです。そうしてこそ、真の「信仰の実」を結ぶことができます。 3.心の割礼と真の従順:律法の本質と信仰の内面化 ローマ書2章の最後の部分で、パウロは「表面的なユダヤ人」と「内面的なユダヤ人」とを対比します(ローマ2:28-29)。 「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、肉体における割礼が割礼なのではありません。本当のユダヤ人とは内面上のユダヤ人のことであり、割礼は心にするものです。それは文字ではなく御霊によるのです。その誉れは人からではなく、ただ神から来るのです。」 ここで言う「ユダヤ人」という表現を、今日で言えば「教会員、聖徒、あるいは自ら神を信じる者」と置き換えることができるでしょう。大切なのは、単に目に見える教会籍や洗礼証明、あるいは宗教的儀式ではなく、真に神を畏れ、心で主のみこころに従う者こそが本物の信徒なのだという意味です。 張ダビデ牧師は、この聖句について「信仰の本質は何よりもまず内面の割礼、すなわち心の変化を要請する」と繰り返し語ります。ユダヤ人は契約のしるしとして割礼を受けましたが、それは神の前で霊的な資格を保証する「絶対的証明書」ではありませんでした。むしろその割礼が示す「聖さ、従順、区別された生き方」を日常の生活で実践してこそ、真にユダヤ人として認められるはずでした。同様に、今日の信徒も洗礼や礼拝出席、さまざまな奉仕や献金が信仰の“しるし”であることは確かですが、それ自体が私たちを義とするわけではありません。霊的ないのちは「神の前に本当にひれ伏しているか、まことの愛の実を結んでいるか、従順の歩みをしているか」にかかっているのです。 パウロは先に「神は各人にその行いに応じて報いられる」(ローマ2:6)と宣言しました。もちろんそこには「恵みによる信仰によって得る救い」という新約の核心的な教えが前提されています。しかし、信仰が実際の生活に結び付かず、単なる頭の知識や口先だけにとどまるならば、それは本質的には「死んだ信仰」です(ヤコブ2:17)。ですから真に信じる者は、心に割礼を受けた者として、神のみこころに従い、聖さと愛を追い求めるはずです。「分裂を起こし、不義を追い求める者には憤りと怒りが下る」(ローマ2:8)というパウロの警告は、教会の共同体内にも十分当てはまります。教会の中に派閥や争いが起き、愛と赦しよりも陰口や不和が増していくならば、たとえ礼拝や儀式に参加していても「内面的なユダヤ人」、すなわち心の割礼を受けた者とは言えないでしょう。 張ダビデ牧師は、ここで具体的に「愛の実践と道徳的責任」について繰り返し言及します。イエス・キリストの教えは律法を廃止するのではなく、むしろ律法の精神を完成させるものでした(マタイ5:17)。その核心は「神を愛し、隣人を自分自身のように愛せよ」という戒めです(マタイ22:37-40)。ところがユダヤ人たちは、いけにえの規定や祭日、食物規定などの形式に熱中するあまり、「本当に重んじるべき正義や憐れみ、信仰をないがしろにしてしまった」とイエス様は指摘されました(マタイ23:23)。同じように、現代の教会員も、さまざまな宗教行事やプログラムにだけ熱心で、貧しい隣人を助け、傷ついた人々を慰め、教会内外の疎外された人々を受け入れるといった“具体的な愛”をおろそかにするならば、それは形式だけの敬虔に陥っていたパリサイ人と何ら変わりないと言えるでしょう。 パウロは「異邦人の中にも、良心の律法を守り善を行う人々がいる」(ローマ2:14-15)と言います。であれば、教会の内にいる私たちは、彼らよりもさらに低くなり、誠実に善を実行しようと努めるべきなのは言うまでもありません。しかしもし私たちが「心の律法」を踏みにじり、良心の声を無視して、口先だけの信仰を告白しながら実際には不義を行っているならば、異邦人がかえって私たちを裁くことになる――これがパウロの強い警告なのです(ローマ2:27)。 結局、ローマ書2章から得られる最終的な教訓は「信仰の内面化」です。張ダビデ牧師も「真の変化は心から始まる。目に見える制度や儀式、外面的な熱心だけでは神にほめたたえられない。御霊による礼拝、心から捧げる犠牲、そして御言葉に従って生きようとする姿勢こそが真の割礼である」と説きます。もし心から湧き出る悔い改めと従順、そして愛の実践がないなら、いくら外見上は“信仰者”のように見えても、単なる「表面的なユダヤ人」にすぎません。私たちが本当に求めるべきは「神からの誉れ」(ローマ2:29)であり、それは「正直でへりくだった思いで神の前に立つ者」に与えられる祝福です。 パウロの全体的な論旨は、ユダヤ人にも異邦人にも神が同じ公義の基準で裁かれるという事実に帰結します。宗教的な特権や儀式的な功績が免罪符を与えるわけではありません。私たちは「恵みによる信仰によって」救われますが、その信仰が真の従順と愛として現れるときに初めて「心の割礼」を受けた者となります。張ダビデ牧師もこれを踏まえて「イエス・キリストの福音は永遠のいのちと愛への道だが、その道を心から歩まずに他人を裁いたり、宗教的な形式だけにしがみつくならば、かえってその福音が私たちの罪を暴く裁きの物差しとなり得る」という点を警告します。したがって私たちは日々、自らの魂を顧み、神の前に真実に悔い改め、御言葉に従いたいという決断を新たにする必要があります。これこそがローマ書2章から私たちが受け取るべき重要な要点です。 最後に、パウロが語る「互いに告発し合い、あるいは弁明し合って、その心に刻まれた律法の働きを示すのです」(ローマ2:15)という表現が示すように、すべての人は心の奥底で「自分が本当は何者であるか」を知っています。そして神の前では隠れたこともすべて明らかになります(ローマ2:16)。私たちの宗教活動や業績、教会内での地位にかかわらず、最終的に神は「心の真実」をご覧になるのです。だからこそ「私は本当に心の割礼を受けた者なのか。それとも表面的に割礼を受けたふりをしているだけなのか」という問いは、今日もなお有効です。張ダビデ牧師が強調するように、この問いに正直に向き合うとき、私たちは初めて福音の真の力の中へ入り、神との深い交わりを得られます。そしてその結果として、人生のあらゆる場面で「善い実」を結ぶことができるのです。 以上、ローマ書2章を、張ダビデ牧師の教えをキーワードとして三つの小見出しに分けて考察しました。第一に、ユダヤ人も異邦人も、罪と裁きにおいて例外ではないことを確認し、第二に、霊的高慢と悔い改めない頑固さこそが、信じる者にいっそう厳しい裁きをもたらすことを学び、第三に、心の割礼によって真の従順と愛を行う生活こそが信仰の本質であると悟りました。私たちの実際の生活において最も重要なのは、「神の前に自分をありのままさらけ出し、主の御言葉に従い、愛の実を結ぶこと」です。パウロが語る「神は各人に、その行いに応じて報いをされる」(ローマ2:6)という宣言の前に、ただへりくだって悔い改め、主の恵みによって新しくされる道だけが開かれています。そしてこの道こそ、イエス・キリストの十字架と復活によって備えられた福音の道であり、張ダビデ牧師が常に私たちに勧める「真理の道」でもあるのです。

Circumcision of the Heart and Pride – Pastor David Jang

1. The Fairness of Sin and Judgment: Gentiles, Jews, and Today’s Church Romans chapter 2 deals explicitly with “God’s wrath against the Jews,” following chapter 1, which dealt with “God’s wrath against the Gentiles.” In chapter 1, Paul indicts the wickedness of the Gentile world: they disliked retaining God in their minds, filling their lives … Read more

La circuncisión del corazón y la soberbia – Pastor David Jang

1. La equidad del pecado y el juicio: los gentiles, los judíos y la iglesia de hoy Romanos 2, al continuar con el tema de la “ira de Dios contra los gentiles” tratado en Romanos 1, aborda de manera más directa la “ira de Dios contra los judíos”. En el capítulo 1, Pablo denuncia la … Read more

마음의 할례와 교만 – 장재형목사

1.죄와 심판에 대한 공평성: 이방인과 유대인, 그리고 오늘의 교회 로마서 2장은 ‘이방인들에 대한 진노’를 다룬 로마서 1장에 이어, ‘유대인에 대한 진노’를 본격적으로 다루는 장이다. 바울은 1장에서 이방 세계의 죄악상을 고발했다. 이방인들은 하나님을 마음에 두기 싫어하여 음행과 불의, 탐욕과 우상 숭배로 가득 찬 삶을 살았고, 그 결과 하나님의 진노가 그들 위에 임한다고 선포했다. 그런데 2장에 이르면 … Read more

L’Incarnation – David Jang

1. Les symboles des quatre Évangiles et l’identité multiforme de Jésus-ChristLe message de l’Évangile que prêche le pasteur David Jang s’inscrit dans la longue tradition de l’Église qui assimile l’identité multiforme de Jésus-Christ, telle que présentée dans les quatre Évangiles, aux « quatre êtres vivants » de l’Apocalypse. Il met en lumière la manière dont … Read more

道成肉身——张大卫牧师

张大卫牧师所传讲的福音信息,植根于长期以来教会传统对“四福音书所呈现之耶稣基督多面身份”与“启示录中的四活物”之间类比式解释的关联。他深入探讨了马太、马可、路加、约翰四卷福音书在各自不同的时代与神学背景下,如何诠释耶稣的事工与存有。这一视角贯穿旧约与新约,为多层面展现作为弥赛亚降临的耶稣提供了一个重要的框架。尤其是,此传统解释与中世纪以后流行的“启示录第4章所提到的狮子、小牛(牛犊)、人、鹰分别对应四福音书”的释经思路相呼应。在此基础上,张大卫牧师巧妙运用这些形象,重新阐明四福音书的核心信息。 在马太福音中,由于它较为突出地呈现耶稣作为犹太人的王,因此常用“狮子”来象征。事实上,马太福音强调耶稣基督承继大卫王位,延续亚伯拉罕之约的弥赛亚身份。马太福音的家谱尤其以亚伯拉罕和大卫为核心展开,反映了犹太听众所关注的血统与盟约、以及王权继承的正统性。起自亚伯拉罕、传至大卫的血脉与王权全都在耶稣身上得以应验。因此,从马太福音第一章开始铺陈的耶稣诞生故事,不仅仅记载一个人的出生,而是一出神学性的“戏剧”,展示犹太人对救恩史之盼望与期待,如何在弥赛亚耶稣里结出果实。正因如此,张大卫牧师借马太福音提醒我们重新思考“狮子”象征下的耶稣,宣告祂是万王之王,威严与权能俱全,同时也是应验盟约的救恩之王。 与之相对,马可福音常被认为是面向罗马人所写的、注重行动与节奏紧凑的福音书,也契合罗马人讲求“立即行动”与“实用性”的思维方式。这里,耶稣被揭示为“神的仆人”,张大卫牧师将此与象征牺牲服事的“小牛(牛犊)”形象联系起来。马可福音中,“立即”或“立刻”之类的词出现得极为频繁,且耶稣事工转场迅速,接连施行神迹与医治。这与马可福音10章45节“人子来不是要受人的服事,乃是要服事人,并且要舍命作多人的赎价”这一主旨经文紧密相连。旧约的祭祀制度里,小牛(牛犊)以祭物姿态献上、代替人的罪,这与耶稣在十字架上完成牺牲、成全人类救恩的图景相呼应。耶稣顺服至极,甘愿以“彻底的仆人”形象完成十字架之路。藉此,张大卫牧师强调今日信徒所当效法的服事榜样,提醒我们福音不止彰显君王的权柄,也展现了那降卑自己、完全舍己、以仆人形象临到世间的主。 路加福音则与象征“人子”的“人”形象紧密相联。路加福音的家谱一直追溯到亚当,这表明耶稣不单单是为犹太民族而来,更是为全人类而来。路加福音中,穷人、弱势者、罪人、外邦人、妇女、儿童等社会边缘群体得蒙眷顾的场景尤为突出。张大卫牧师指出,这一特征既体现了路加面对希腊—罗马世界背景时的视角,也体现了神意在普世范围内施行拯救的神学要义。譬如先得到天使报信的是当时社会中不被尊重的牧羊人,圣殿里迎接耶稣的不仅是虔诚的西面与女先知亚拿,还有麻风病人、税吏、罪人、甚至罗马军官,都得到耶稣的接纳。路加福音透过此种描绘,展现耶稣彻底恢复“人性”尊严的使命。张大卫牧师将这与“人子”这一称呼的神学分量相结合,进而阐明:耶稣不仅是犹太人的弥赛亚,更是“全人类的救主”。 最后,约翰福音常被比喻为“如同从天而降的鹰”。鹰的意象突出耶稣从神而来的起源。“太初有道”(约1:1)的宏大宣告,不仅在宣示耶稣的神性,也在格里—罗马的哲学语境中为福音建立了独特的护教策略。张大卫牧师提醒我们,约翰福音成书于公元一世纪末期,福音已在整个地中海地区广传,希腊哲学占据普遍学术地位。作者约翰以“道(Logos)”这一概念来介绍耶稣基督,既是创意亦具宣教视野——那位在天上、拥有无限高度与权能的,竟然降卑来到人间,彰显其神性同时,也宣告神对世人的大爱。 由此,张大卫牧师透过将四福音书中对耶稣基督的种种描绘与启示录四活物的意象相连接,帮助读者从多重角度重新注视耶稣——狮子、牛犊、人、天上之鹰。虽然祂是同一位主,四福音却各有侧重。这样的诠释乃是教会悠久传统的积淀,也不仅限于象征表面,而是帮助今时今日的信徒更全面地理解耶稣多方面的属性与救恩事工。张大卫牧师强调,当我们审视四福音各自面向的读者群、时代背景、宣教目的,就能整合地领会耶稣的多重面貌,并由此品味福音的丰富。 接下来,张大卫牧师着重探讨约翰福音第一章中的“道”(Logos)概念及其源自希腊哲学思想世界的背景。古希腊哲人苦苦思索宇宙如何维持秩序、万物所依据的不变真理为何,并将其称为“Logos”。它的内涵涵盖“理性原理”“言语”“秩序”等,是人类语言、逻辑与宇宙和谐的根本。约翰将其与耶稣基督密切结合,从而向当时希腊知识分子架设了一座宣教之桥。 “太初有道”这一宣告,对熟悉创世记第一章“起初神创造天地”的犹太人而言并不陌生,因为他们深知“神的话语”乃是创世的工具。同时,对研习Logos思想的希腊人来说,这句宣告亦带来新鲜冲击:原来那永恒不变的宇宙原理并非抽象概念,而是“与神同在、且就是神”的一位位格,并且万物都借着祂造。张大卫牧师在此处再三强调:“耶稣不仅是先知、道德导师,或仅属于犹太民族的弥赛亚,而是起初就存在、创造万有,与神同质同尊的神本身。”然而,这位神竟然取了人形、住在我们中间,这正是希腊哲学所不能触及的奥秘。柏拉图式思维中,“神性”或“理念境界”并不与物质世界相混杂,但约翰却宣告这件看似不可能之事在历史中真实地发生——这就是“道成肉身”。 道成肉身(Incarnation)最核心之处,在于那无限的神取了有限之人的形体。张大卫牧师将此称为“神亲自临到被罪与黑暗所困的人类的爱之巅峰”。即便是接受了神的律法与先知教导数百年的以色列,当神真正以人形降世,仍倍感震撼。而对希腊思想家、或罗马当权者而言,“神之子变成人”往往被误解成希腊—罗马神话式的奇谈。但约翰福音揭示,这不是神话或传说,而是有时间与空间坐标的历史事件。 在探讨“道”之概念所蕴含的文化、历史与宣教价值时,张大卫牧师指出初代教会如何借用一定程度的希腊哲学话语,来对外邦人宣讲福音,这具有先驱意义。正如保罗在雅典的“未识之神”讲道(徒17章),也是同理。由此,约翰福音1章3节“万物是借着他造的”清晰表明了耶稣的神性与创造者身份:祂在太初之前就已存在,掌管宇宙与历史,也是万有生命的源头。“生命在他里头,这生命就是人的光”(约1:4),宣告离了祂便无生命、无光明可言。张大卫牧师接着诠释,这“光”不仅是道德教训或认识论启迪,更是击碎罪与死之权势、开启新创造的神之大能。因耶稣,处于黑暗与混沌之下的人类才真正迎来真理之光。 因此,张大卫牧师不断强调,约翰福音第一章最令我们震撼的是:道成肉身绝非“把某个哲学概念巧妙包装”而已,而是基督信仰中心真理的全然展开。对着以犹太信仰为根基又要向外邦世界传扬福音的初代教会而言,“道(Logos)”的运用极大拓展了福音广布的领域。时至今日,当我们面向具有希腊—西方思想,或讲求科学、理性主义的人群时,约翰福音“耶稣乃万有之本源与中心”的挑战性宣告,依旧具有当年的震撼力,这正是张大卫牧师所归纳的“道成肉身”给我们的启示与榜样。 约翰福音1章14节“道成了肉身,住在我们中间”这节经文,可谓最雄伟而又简洁地展现了基督教所说的道成肉身全貌。张大卫牧师将此称为“神极致的爱和自我卑微的结晶”。因为无限、绝对圣洁的神,竟穿上人的身体来到世上,这在宗教史和哲学史上都堪称超乎想象的爱之行动。虽然在神话传说中,神化身为人等情节并不鲜见,但大多停留在神话层面,而不是在历史中被证实;更何况,为拯救罪人甘愿钉十字架以至于死,这唯有在基督教的福音中才出现。 张大卫牧师续而说明,“道成肉身”带来的果效主要有二:第一,原本因罪而与神隔绝的人,可以重新与神面对面相遇;第二,这相遇不仅止于宗教仪式或义务感,而是使人“经历恩典和真理之丰盛”的释放。因罪而关闭的伊甸园之门,在耶稣里重新敞开,所有接待并信祂的人都可得着成为神儿女的权柄。 道成肉身也是汇聚旧约诸多预言的顶点。以赛亚所预言的“以马内利”(赛7:14)——“神与我们同在”,在耶稣降生里具象成真;摩西所说“神要在你们弟兄中间,给你兴起一位先知象我”(申18:15)的那位,就是耶稣;有关大卫王朝要建立永远王位的应许(撒下7:12-13)也由耶稣来成就。张大卫牧师强调这些旧约与新约的连续性,指出道成肉身不是新约才有的破格之举,而是自太初即在神救赎计划中预定之事的完成之钥。 “充充满满有恩典有真理”意指神的怜悯与公义、祂的爱与真理都在耶稣身上得到完美呈现。旧约律法让人看见罪与审判,但福音则对那些自知是罪人的人彰显“恩典”,使其得以回转归向神。同时,“真理”也在耶稣里显明——不仅是头脑中对教义的理解,而是切身经历神所指引的生命之道、存在之目的。张大卫牧师进一步说明,因律法无法使人得救,我们也无法自救,唯独耶稣道成肉身、并且在十字架上舍命,才完成了救赎。正如保罗在罗马书第五章称耶稣为“末后的亚当”,因着头一位亚当的不顺服,罪和死亡入了世界;但借着耶稣的顺服,义与生命就临到世人。若没有道成肉身,十字架的代赎便毫无意义。 另一方面,“光照在黑暗里,黑暗却不接受光”(约1:5)的悲剧也随之显现,但终极结局乃是光的得胜。张大卫牧师指出,即使信徒暂时经历了与世俗黑暗势力的冲突,也应持守末世性的盼望:耶稣终将胜过黑暗。耶稣当时遭到多数人的拒绝,甚至被钉死在十字架,但那并非失败的结局,而正是救恩之门的开启。故此,张大卫牧师称道成肉身是神为罪恶与死亡捆绑下的人类带来的“破局之光”;如今人若选择接待这光,就能得享生命。 张大卫牧师也把这一“道成肉身”的真理与圣诞节直接相连,提醒大家不要将圣诞节的意义简化为“婴孩耶稣的诞生”而已。那婴孩就是太初的道、万物的创造者,并且日后要走向十字架、复活,完成对世人的代赎。虽然马槽里的小婴孩形象充满温馨,但其中蕴含着神沉重的救恩大戏。道成肉身具备宇宙性的震撼力、可扭转历史洪流、并且为人类罪性问题提供终极解决方案。 张大卫牧师有时会形容福音为“一则令人悲伤的故事”,因为它的背景是人类被罪与死亡、黑暗势力所辖制的悲剧性处境。自从人类堕落、远离神之后,历史上对罪的循环、偶像崇拜、灵魂流浪不断重复,而最终在死亡命运前无计可施。旧约的历史和律法更凸显了人的无力,世俗政治与社会体制也无法提供完满之解。 然而,这悲伤的故事同时又是“一则充满盼望的好消息”,因为神已亲自进入这黑暗深处。耶稣虽拥有神性的荣耀,却舍弃自己,生于卑微的马槽。张大卫牧师解释说,这是“无人被排斥在外的普遍性救恩”,不是富足或权高者才配得的福分,哪怕贫穷或身处社会边缘,仍可向这位耶稣敞开心门。 圣诞节是人类历史的分水岭。耶稣的降生,成为BC(公元前)与AD(主后)的时间分割点,教会据此重新定位时间。哪怕旧约时代中充满绝望,律法的重担无从纾解,如今在耶稣里,都可开启新纪元。张大卫牧师称之为“从死亡到生命的范式转变”。黑暗的势力告终,光明的统治开始。 但若再深入到福音故事之中,我们发现耶稣的一生与服事,以及祂的受苦与死亡并非一帆风顺。许多人在真正见到弥赛亚后竟不认祂,甚至排斥并最终把祂钉死在十字架上。约翰福音1章11节所说“祂到自己的地方来,自己的人倒不接待祂”,便是写照。张大卫牧师认为,这是福音最悲情之处:当真光与真理面对黑暗与谎言时,世人并未敞开怀抱,却以拒绝与暴力相对。然而福音并不因此中断。耶稣的受死反而成了人类得救之门。张大卫牧师指出,十字架已成为“荣耀的宝座”,且神救恩计划也在耶稣的死里得以圆满;接着藉着复活,耶稣不再是历史上惨烈的殉道者,而是打破死亡权势、带来“活泼盼望”的元首。圣诞节里降生的婴孩耶稣,仍要走向十字架与复活,故此圣诞只是序幕而非救恩全部;我们可藉此再度确认,这正是神在历史中展开的宏伟戏剧之开端。 因此,张大卫牧师警告,切勿将圣诞节变成单纯的“庆祝婴孩降生”。我们当牢记:这婴孩要走向十字架与复活,为世人舍身流血。那可爱的形象背后,是神对人类罪的严肃对待与厚重救赎。圣诞蕴含宇宙性意义,足以改变人类历史进程,并提供了对人类罪性问题的唯一答案。 最后,张大卫牧师认为,圣诞节年年回顾,但不应只是“循环”,更须成为“更新”。救恩恩典乃是每天都可经验的新生命动力,引领信徒在世上作光作盐。黑暗与死亡依然桎梏许多人,故道成肉身并非只属二千年前过去式,而是当下依旧有效的真光。我们应跟随光,在这世上成为神国的见证者。张大卫牧师将之连结到当代教会的宣教使命:“正如‘道’成了肉身临到我们,教会也当在传扬福音时,以具体且真实的言行活出福音。”如此,圣诞不但纪念“神的爱子来临”,更是教会承担使命的起点。 正因此,道成肉身并非局限在节日纪念里,而是提醒我们:这位神甘愿承担世间的苦痛与软弱,教会也当效法主,不袖手旁观世上的痛苦,而要实际投入带去福音与关怀。张大卫牧师呼吁,每逢圣诞节,教会必须重新记起神眷顾与拯救世界的热情,确认福音不只是宗教口号,而是切实改变个人、翻转历史与文化的生命力。 综观此,张大卫牧师的福音解读透过“四福音书各自彰显的耶稣身份”与“Logos概念在宣教上的延伸”,以及“道成肉身的恩典与真理”,将我们带向以圣诞节为中心枢纽的救恩宏图,使我们重新感受此救恩是何等广阔又深邃。因此,信徒在圣诞时不该停留于对“婴孩耶稣”的短暂情感体验,而应思考祂如何走十字架之路、又赐给我们救恩生命。福音并非往昔的故事,而是贯穿当下与未来的“活的真理”,道成肉身理应持续震撼并感动我们的生命。 张大卫牧师所强调的这四大脉络——四福音书象征、太初之道与道成肉身、充满恩典与真理、以及在黑暗与死亡世界中彰显的救恩之光与圣诞节的意义——看似不同角度,实则都指向同一焦点:耶稣基督与祂带来的宇宙性救恩。马太、马可、路加、约翰所展示的耶稣图景虽因历史、神学、文化背景而异,却殊途同归:祂自永远而有、创造万有,为我们钉死在十字架上,又借复活驱散黑暗,确立生命之光。 而道成肉身,正是此福音的关键时刻,让人类有机会回归创造主的怀抱。再黑暗的时代,光也能渗透;再沉重的罪与死锁链,也能在耶稣里得释放。教会肩负宣扬此信息的使命,圣诞节正是重申这使命的重要节点。按照教会传统,降临节(将临期)是为迎候与默想耶稣降临的时期,因此张大卫牧师认为,这阶段正好是深入研读四福音信息、默想道成肉身神学,让我们在圣诞时分真正经历并践行此喜乐。 最终,张大卫牧师并非只在解释“道成肉身”这一教义,而是阐述它对人类生存、社会与历史的深远影响。若无神亲自来到人间,信仰就会沦为人类主观推测或宗教热心,而缺乏神活泼的大能。道成肉身见证了神对我们极深的爱,也揭示我们如何得救,更提供我们当下与未来生命更新的源泉。 并且,道成肉身并不限于当年的圣诞,而是与十字架、复活、以及圣灵降临共同织就完成的救恩叙事整体。若我们能抓牢这全局,就能在圣诞的欢愉与复活的盼望之间建立贯通视野,并且更仰望主的再来。张大卫牧师勉励读者,每次度过圣诞,都不应只在热闹活动中匆匆而过,而当在神圣的默想、悔改与对救恩的激动中重新得力,使我们再次省察自己与教会群体,在何种程度上正活出那位如今内住且将再临之主。 换言之,圣诞节提醒我们:当我们尚在罪与死的辖制中,耶稣已来临;今天仍在黑暗中行走的人,同样迫切需要这真光。由四福音多角度齐观的耶稣——君王的耶稣、仆人的耶稣、人子的耶稣、如鹰自天而降的耶稣——可让我们看见祂是何等宏大又亲近。那位道(Logos)竟降卑穿上血肉,在十字架上舍命,又复活得胜,如今成为我们的王与朋友、也是救主,这便是整本福音书之总和;也是张大卫牧师反复宣讲的核心。 同时,福音是一则“悲伤故事”却以“喜讯”收尾,是因耶稣基督里死亡被终结,生命之路被开启。人类存在秩序乃因祂而翻转,原本唯有顺从生死规律的我们,如今却能盼望永生。这非人力或智慧可企及,唯有借道成肉身与十字架复活所施予的礼物方能领受。因此,圣诞节在欢乐之前,更是一种“敬畏”的事件:无限的神进入有限的身体;创造主变为受造物的样式,对此只有以敬拜与赞美来回应。 张大卫牧师还强调,诠释道成肉身时应当聚焦“神并非只寻找建筑或制度化的教会,而是寻找人”。主以人性临世,与人同行、同桌、医治伤病、擦去眼泪,甚至进入罪人的家与之同席。主的人性温暖丝毫无损于祂神圣的尊荣,反而最充分地表达了神的慈爱。这也启示我们在日常生活中要践行“道成肉身的灵性”——不仅待在教堂,而要走入社会,关怀弱势,与痛苦的人同在,如耶稣般谦卑又贴近。 综上,张大卫牧师综合四福音对耶稣基督多方面的宣告,诠释道成肉身如何带给我们转变与救赎。尽管四福音面向不同受众、目的与环境,各有特色,却同声宣告“耶稣是神的儿子,也是全人类的救主”。约翰福音更从哲学与宇宙宏观视角切入,第一句“太初有道”就预示祂是自有永有、掌管历史与万物的主,那“道”取了肉身与我们同在,我们也看见了祂的荣光,并因祂的恩典得救。 圣诞节正是这超然“道”在历史中具体现身的纪念日。若没有这开始,便无从谈及十字架与复活;故圣诞既是福音全貌的先声,也是主线所贯穿的主题。张大卫牧师提醒我们当警惕圣诞流于表面庆典与狂欢:那照亮黑暗的光,理当带着我们走向黑暗中绝望的人,并付诸实际的爱心行动。 因此,当我们迎接当代的圣诞,唯有真正回到“道成肉身”之内涵,才不致陷于浅表化。我们必须超越个人层面,进入教会的集体维度,对世界张开“爱的手臂”。这正是教会在道成肉身原理下“在世上作光、作盐”的路径,也是真实践行主所赐新命令——“彼此相爱”的方式。张大卫牧师强调,若少了这爱的实践,再华美的教义或再隆重的圣诞庆典,实则已经背离了道成肉身的真正精髓。 若将“四福音的象征性解读、约翰福音的道(Logos)概念、道成肉身的救恩历史意义、以及耶稣如何成为黑暗世界之光”这几大面向综合起来,张大卫牧师的信息十分鲜明:“看哪,耶稣基督!”这呼召让我们不仅把圣诞节视为传统或义务,而是反复自问:我所相信并追随的耶稣究竟是谁?祂来此世上的目标为何?这目标又要求我在个人生活与教会共同体中做出何种回应? 道成肉身是神介入人类历史的行动,也是人类在绝望之中所能找到的惟一盼望。若没有十字架与复活的完成,圣诞也难以得到终极诠释;但正是因为圣诞为救恩大功拉开序幕,每年圣诞时分,我们藉回顾此“道成肉身”的核心,重新确认福音的真实性。耶稣基督身为人,真实承担了我们的罪与痛苦,故此我们无需再在恐惧中度日。教会的本质,正是拥抱并宣告这真理,号召人信靠那道成肉身、死而复活且依旧长与我们同在的主。 张大卫牧师不断呼吁,让道成肉身的真理不至沦为“抽象教义”,而要激励我们在现实世界的局限与苦难中彰显主的爱。毕竟,道成肉身正是最鲜明的证明:说话的神并未沉默,牠也不只停留在天上,而是亲自进入我们生命。约翰福音第一章所启示之Logos就是耶稣,祂使我们得见“父独生子的荣光,充满了恩典和真理”(约1:14)。我们每天都被呼召去经历并见证这一宣告。 综上所述,以道成肉身为中心轴所展开的张大卫牧师福音信息,再次向我们发出跟随耶稣的呼召。那道路或许艰难狭窄,并带着十字架的苦涩,却终将迎向复活的荣光与神国之成全。圣诞节乃是此道路的开端,在此纪念的同时,我们不仅回溯历史事实,也亲身经历现今与我们同在的耶稣,并仰望将来祂再来的盼望。张大卫牧师强调,这正是道成肉身每年都可被重新发掘、深化并扩展的原因。 如此,君王耶稣、仆人耶稣、人子耶稣、如鹰般从天降临的耶稣,四大象征融汇一体;太初之Logos成了肉身这一神迹则贯穿全局。张大卫牧师的福音诠释非但停留在教义层面,更涵盖生命转变与宣教行动之层面。若我们谨记并遵行这一信息,则圣诞节不再止于岁末热闹庆典,而能成为与福音之全貌相遇的敬畏时刻,也是总结过去、预备新年的敬虔决定。 终归,道成肉身既是教义,更是生命;既是神秘,也是现实;既是神无限之爱的见证,也是一种邀请。当我们领悟此点,信徒便不再追逐个人荣耀或世俗目标,而会效法耶稣,在世上分享神国的喜乐与光明。而这正是张大卫牧师透过圣诞节与约翰福音第一章的道成肉身信息,向我们发出的最终呼召与劝勉。愿我们都回应这呼召。

受肉――張ダビデ

1. 四福音書の象徴とイエス・キリストの多面的アイデンティティ 張ダビデ牧師が語る福音のメッセージは、四福音書が示すイエス・キリストの多面的なアイデンティティを「黙示録に登場する四つの生き物」に喩えて解釈する、古くからの教会伝統を踏まえている。彼はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネが、それぞれ異なる時代的・神学的背景においてイエスの働きと存在をどのように捉えたのかを深く考察する。この視点は旧約と新約を総合しながら、メシアとして来られたイエスを多層的に示す重要な枠組みとなる。特に、この伝統的解釈は黙示録4章に言及される獅子、小牛、人間、鷲のイメージが四福音書にそれぞれ対応するとする中世以降の解釈の流れと重なり、張ダビデ牧師はこれらのイメージを活用して四福音書の核心メッセージを再照明する。 マタイ福音書はイエスをユダヤ人の王として描く側面が強いので獅子に象徴され、実際にマタイ福音書ではイエス・キリストがダビデ王権を継承する真の王であり、アブラハムの契約を受け継ぐメシアであることが強調される。マタイ福音書の系図がアブラハムとダビデを中心に展開されるのは、ユダヤ人の読者が関心を寄せていた血統と契約、そして王権継承の正統性への問いをそのまま反映しているからである。アブラハムに始まる血統と、ダビデに連なる王権がすべてイエスによって成就することが明らかにされるので、マタイ1章から始まるイエスの誕生物語は、単に一人の人物の誕生を告げる物語にとどまらず、ユダヤ人の救いの歴史への希望と期待がどのようにメシアであるイエスのうちに結実するかを示す神学的ドラマとなる。こうした点で、張ダビデ牧師はマタイ福音書を通してイエスを獅子に象徴づける伝統を思い起こし、万王の王として来られた方の威厳と権能、そして契約成就という文脈のなかで救いの王であることを説く。 それに対して、マルコ福音書はローマに向けた実践的かつスピーディな福音書としてしばしば理解され、ローマ人の「即時的行動」や「実用性」を重視する思考を踏まえつつ福音を述べ伝えていく。ここではイエスは「神のしもべ」として提示され、張ダビデ牧師はこれを犠牲的奉仕を象徴する小牛のイメージと結び付けて解説する。マルコ福音書では「すぐに」という言葉が頻繁に登場し、イエスの働きが非常に速いペースで移り変わりながら、奇跡や癒しが続けざまに行われている姿が描かれる。これはイエスが仕えられるためではなく仕えるために来られ、多くの人のために自分の命を身代金として捧げた(マルコ10:45)という中心聖句とも直結する。小牛が自らをいけにえとして捧げ、人々の罪を代わりに負う旧約の祭司制度の象徴的イメージとも重なり合い、イエスは十字架で犠牲を完遂することで人類の救いを成就するまで、徹底した「しもべ」として従順を示されたことがわかる。張ダビデ牧師は、現代の信仰者にも与えられた仕えの手本が何であるかを説き、福音が単に王の権威だけでなく、自分自身を完全に差し出す「しもべ」として地上に来られたことを同時に強調する。 ルカ福音書は「人の子」を象徴する「人間」のイメージと密接につながる。ルカ福音書の系図はアダムまでさかのぼっており、これはイエスがユダヤ民族だけでなく、すべての人類の救い主であることを象徴する。実際にルカ福音書には、貧しい者、弱者、罪人、異邦人、女性、子どもなど、社会的に周縁に置かれた人々を顧みるイエスの姿がとりわけ際立って描かれる。張ダビデ牧師は、これがヘレニズム・ローマ世界を背景としたルカの視点、そしてあらゆる人類を救おうとなさる神の普遍的な救いのご計画への神学的強調だと語る。イエスの誕生を最初に聞かされた羊飼いたちは、当時あまり尊重されていなかった職業層であったが、彼らが真っ先に天使から知らせを受け取る点や、シメオンとアンナのように神殿でイエスを迎えた敬虔な人々だけでなく、らい病人、取税人、罪人、さらにはローマ兵士までも受け入れるイエスの姿から、ルカ福音書はイエスが人間性を全面的に回復するお方であることを示す。張ダビデ牧師はこれを「人の子」という称号が持つ重みと神学的意味をさらに拡張させながら、イエスが単なるユダヤ人のメシアではなく「全人類が求める救い主」であることを改めて示す。 最後に、ヨハネ福音書は天から下ってくる鷲のイメージに喩えられることがある。この鷲のイメージはイエスの神的起源を強調し、太初から存在したロゴスが人間の歴史に降臨する壮大な出来事を指し示す。「初めに言(ことば)があった」(ヨハネ1:1)という荘厳な宣言で始まるヨハネ福音書は、ヘレニズム哲学を象徴するギリシア・ローマの知性界において福音の真理性を弁証する、特別な戦略的意義をもっている。張ダビデ牧師は、ヨハネ福音書が紀元1世紀末頃に書かれたことを想起させつつ、すでに地中海全域に福音が広がり、ヘレニズム哲学が普遍学問として定着していた状況で、著者ヨハネが「ロゴス」という概念によってイエス・キリストを紹介したのは、非常に独創的でありながら宣教的にも優れた選択だったと語る。天におられるお方、すなわち無限の高さと権能をお持ちのお方がこの地上に肉体をもって降りて来られたというメッセージは、イエスの神性を劇的に示すと同時に、地上に来られる神の愛を告げ知らせる。 このように張ダビデ牧師は、四福音書が提示するイエス・キリストの多様な側面を黙示録の四つの生き物のイメージと組み合わせて解き明かすことにより、読者がイエスをさまざまな角度から新鮮に見つめられるよう助けている。王、しもべ、人の子、そして天の鷲になぞらえられるイエスは同じ本質をもつ一人の方だが、各福音書が強調する焦点はそれぞれ異なる。この解釈は教会の古い伝統のなかで形成されてきたものだが、それが単なる象徴解釈で終わるのではなく、現代の信仰者にイエスの幅広いご性質と救いのみわざをさらに立体的に理解させてくれる解説の指針となる。張ダビデ牧師は、福音書が特定の読者層や時代的背景、宣教の目的に合わせてイエスをどう提示しているかを検討するとき、イエスの多面的な姿が統合的に迫ってきて、それが福音の豊かさを味わう道だと強調する。 2. 太初のロゴスと受肉の神秘に対するヘレニズム・ローマ世界的解明 続いて張ダビデ牧師は、ヨハネ福音書1章に登場するロゴス(言)概念と、その背景となったヘレニズム哲学の思想世界を深く扱う。ヘレニズムの哲学者たちは、宇宙がどうやって秩序と理(ことわり)を保っているのか、変わらない普遍的原理とは何かを探究し、それを「ロゴス」と呼んで追究していた。ロゴスとは本質的に「理性的原理」「言葉」「秩序」などを包含する概念で、人間の言語や論理、宇宙的調和の根底を結びつける鍵だと考えられていた。それをヨハネはイエス・キリストに接合させることで、当時のヘレニズム知識人に対して魅力的な宣教の架け橋を築いたといえる。 「初めに言があった」というヨハネの宣言は、創世記1章の「初めに神が天と地を創造された」を想起するユダヤ人読者にとっては馴染み深く、同時にロゴス思想を探究していた異邦人の知性層にとっても新鮮な衝撃を与えた。ユダヤ人であれば、言葉が神の創造の道具であることを旧約聖書の数多くの箇所で体験的に学んでおり、ギリシア人であれば、言葉が不変の宇宙原理として哲学的に探究すべき対象だと理解していた。ヨハネはこの二つを結合させ、イエス・キリストは創造以前から神とともにおられた方、すなわち神ご自身であり、万物を造られた主体であるという爆発的真理を宣言する。 張ダビデ牧師はここで「イエスは単なる預言者でも道徳的教師でも、あるいはユダヤ人だけのメシアでもない」という点を改めて強調する。イエスは太初から存在して万物を創造され、神と同じ本質をもつお方なのだ。しかし、その方が人間の肉体をとって人々の間に来られたという事実そのものは、ヘレニズム哲学が到達しなかった領域だった。ヘレニズムの哲学者たちには、神的存在が物質世界へ下るという発想は馴染みがなかった。むしろプラトン的思考によると、神的・イデア的世界は物質界に汚されないはずだ。しかしヨハネは、まさにその理解しがたい出来事が歴史上で起こったと「受肉(インカーネーション)」という言葉で宣言する。 受肉(Incarnation)の本質は、無限なる神が有限なる人間の肉体を取られたという点にある。張ダビデ牧師は、これを「罪と闇に堕ちた人類に自ら臨んでくださった神の愛の極み」と呼ぶ。律法と預言者を通して何世紀にもわたり神を教えられてきたイスラエルさえ、実際に神が人間となって来られたという出来事には全く予想もしていなかったほどの衝撃があったことを歴史的文脈のなかで説明する。さらに、ヘレニズム哲学者やローマの権力者たちは、「神の子が人間として生まれる」という話を、ギリシア・ローマ神話の様々な神々の伝説と混同するおそれもあった。しかしヨハネ福音書は、それが神話でも伝説でもなく、実際の時空間で起きた出来事であることを、福音書全体の展開を通して証ししていく。 張ダビデ牧師は、「ロゴス」という概念がもつ文化的・歴史的・宣教的価値に触れながら、教会が福音を伝えるとき、どのような言語や概念的枠組みを活用するべきなのかという一つの模範として、ヨハネ福音書を提示する。福音がユダヤ人だけでなく異邦人と全人類に広がっていかなければならない以上、ヘレニズム哲学をある程度受容し、その言語を変容させてイエスを宣べ伝える必要があったというわけだ。特に使徒パウロがアレオパゴスの丘で「知られざる神」について語り、ギリシア文学や哲学者たちを引用した(使徒の働き17章)姿も同じ文脈で解釈される。 こうしてヨハネ福音書1章3節「万物は言によって造られた」という節は、イエスの神性と創造主であることを明確にする。イエスは太初から存在し、宇宙と歴史を支配し、すべての生命の源となられる。「その内に命があった。そしてこの命は人間を照らす光であった」という続く節は、イエスから離れてはいかなる生命も光も存在しないことを示唆する。張ダビデ牧師はここで、「光」というのは単なる倫理的教えや認識論的悟りではなく、罪と死の権威を打ち砕き、新しい創造を始める神の力だと説明する。闇と混沌に支配されてきた人類の歴史は、イエスによって初めて真理の光を迎え、これは福音がもつ「闇を突破して入ってくる光」という躍動的な特性を際立たせる。 最終的に張ダビデ牧師がヨハネ福音書1章で繰り返し強調するのは、受肉は単にある哲学概念をもっともらしく流用しただけではなく、神学の核心的真理を深く展開する出来事だという事実である。ユダヤ的なルーツを踏まえつつ異邦世界に福音を宣べ伝えなければならなかった初代教会にとって、このロゴス思想の接合は福音宣教の地平を大きく拡張した。そして今日においても信仰者たちは、ヘレニズム的・西欧的思考、あるいは科学的・合理的理性をもつ人々に福音を伝える際、「イエスこそがすべての根源であり中心である」ということを挑戦的に宣言しなければならない。これこそがヨハネ福音書の「ロゴス」導入がもたらした教訓だと、張ダビデ牧師は指摘する。 3. 「言が肉となった」ゆえにもたらされる恵みと真理の満ちあふれ ヨハネ福音書1章14節「言は肉となって、私たちの間に宿られた」という一節は、キリスト教が語る受肉の全体像を、最も雄大でありながら簡潔な形で表現している。この聖句を、張ダビデ牧師は「神の絶大な愛と自己卑下の決定版」と紹介する。なぜなら、無限で絶対的聖性をもつ神が、人間の体をまとってこの地上に来られたという事実は、想像を超えるほどの愛の行為だからである。宗教史や哲学史を振り返ると、神が人間になったという物語はしばしば神話的空想の中に登場するものの、それが歴史的事実として証明され、しかも罪人を救うために十字架で死に至るまで自らを低くされたという内容は、キリスト教の福音だけに見られる際立った違いである。 続いて張ダビデ牧師は、「言が肉となった」という出来事がもたらす結果を大きく二つに分けて説明する。第一に、罪のゆえに神と断絶していた人間が、再び神と直接出会えるようになったということ。第二に、その出会いが単なる宗教儀式や義務感にとどまらず、「恵みと真理」の満ちあふれを体験する実存的解放へとつながるということである。罪によって固く閉ざされていたエデンの園の門が、イエスにあって再び開かれ、いまや誰でもイエスを信じ受け入れるなら神の子として生まれ変わる道が開かれたのだ。 受肉は旧約で預言されてきた多くのメッセージを結集する頂点でもある。イザヤが預言したインマヌエル(イザヤ書7:14)、すなわち「神が我々と共におられる」という言葉は、イエスの誕生によって歴史の中に具体化される。モーセが「私のような預言者を神は起こされる」と語った(申命記18:15)その人こそイエスであり、ダビデ王家に永遠の王が立てられるという約束(サムエル下7:12-13)もイエスによって成就される。張ダビデ牧師はこうした旧約との連続性を強調し、受肉は新約だけの思い切った革新ではなく、太初から計画された神の救いのご経綸が完成する鍵だと説く。 さらに「恵みと真理が満ちあふれている」とは、イエスのうちに神の慈しみと正義、愛と真理が完全に実現されていることを意味する。旧約の律法は罪を示し、裁きを警告することで、人間がいかに無力であるかを明らかにする。しかし福音は、自分が罪人だと気づいた人に「恵み」を注ぎ、その人が再び神のもとへ帰れるように道を開く。「真理」もまたイエスによって啓示されるが、それは単に教義に関する認知的理解にとどまらず、神が望む生き方や存在の目的を体験的に悟ることである。 張ダビデ牧師は、律法では不可能だった救い、すなわち人間が自力では絶対に得られなかった罪の赦しと永遠のいのちを、イエスが受肉し十字架での死によって成し遂げられたことを詳しく解説する。使徒パウロがローマ書5章でイエスを「第二のアダム」と呼ぶように、最初の人アダムの不従順によって罪と死が世に入り込んだが、イエスの従順によって義といのちが再び開かれ、全人類に与えられた。この教理は受肉なしには完成し得ない。もし神が人間となられなかったら、十字架の贖罪に何らの意味も成就もあり得なかったからである。 さらに受肉によって「光は闇の中に輝いているが、闇はこれを理解しなかった」(ヨハネ1:5)という悲劇的状況が一時的に生じるものの、最終的には真の光がすでに世に来ており、誰でもこの光を受け入れるなら救いに至るという希望のメッセージが同時に告げられる。張ダビデ牧師は、闇に慣れ親しんだ世界が光を拒んだり見抜けなかったりする過程を説明しつつ、信仰者はこうした悲劇を経ても、最後には光が勝利するという終末論的希望をつかむべきだと語る。イエスを受け入れず、遂には十字架に架けてしまった当時の宗教指導者たちの姿は、今日も福音を認めない多くの人々の姿と重なるが、それでも光は決して消されず、イエスにあって恵みと真理の道が大きく開かれていることが、受肉の決定的意味だと強調する。 張ダビデ牧師は、この受肉の出来事をクリスマスと直接つなげながら、クリスマス本来の意味が単に「幼子イエスの誕生」に縮小されないようにと願う。その幼子イエスは、すなわち太初のロゴスであり、万物を創造された方であり、最終的には十字架と復活を通して人類の罪を贖われる方である。幼子イエスの誕生が可愛らしく温かいイメージを与えるとしても、その奥には神の重厚な救いのドラマが内包されていることを見落としてはならない。受肉は宇宙的事件であり、歴史の流れを変えるほどの衝撃力をもち、人間の罪の問題に対する完全な解答を提示する救いの始発点なのである。 4. 闇と死の現実を突き抜ける救いの光とクリスマスの神学的意義 張ダビデ牧師は、福音をときに「悲しい物語」と呼ぶ。それは、罪と死、闇の支配のもとにある人間の悲劇的現実が、福音の背景にあるからだ。人間が堕落し神を離れた瞬間から、歴史は絶えず罪の鎖、偶像崇拝、霊的さまよいを繰り返し、最後には死という運命の前でいかなる哲学も制度も根本的解決策を提示できなかった。このような絶望は、旧約の歴史と律法が映し出す人間の限界、さらには世俗の政治権力や儀式制度が示す不完全さを通じていっそう際立つ。 しかしこの悲しい物語は同時に「希望の物語」でもある。なぜなら、この闇のただ中に神ご自身が飛び込んで来られたからである。イエスは神性の栄光をもつお方だが、その栄光を捨て、最も低いところ、すなわち飼い葉桶で生まれる姿をとられた。張ダビデ牧師は、この事実を指して「神が人間の歴史に最も卑しい姿で、不安定な幼子の姿で入り込まれたのは、だれも取り残されない包括的救いを意図されたため」と解説する。裕福や健康、地位が高い者だけが救われるのではなく、力のない者、貧しい者、疎外された者であっても心を開くならイエスを迎え入れることができるのだ。 クリスマスはこうした意味で歴史的分岐点となった。イエスの誕生はBCとADを区切る象徴となり、教会はイエスの到来を起点として時間概念を新しくしてきた。旧約時代がいかに絶望的で、律法の重荷が重かったとしても、いまやイエスのうちにある者は新しい時代に入る。これを張ダビデ牧師は「死からいのちへ移されるパラダイム転換」と呼ぶ。闇の支配が終わり、光の統治が始まる道が開かれたのだ。 しかし福音物語をさらに追うと、イエスの生涯と活動、その苦難と死が決して順調ではなかったことがわかる。人々が待ち望んだメシアがいざ到来してみると、多くの人はその方を認めなかったばかりか、拒絶し殺すにまで至った。これはヨハネ福音書1章11節「この方はご自分のところへ来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」で要約される。張ダビデ牧師は、この出来事が福音の悲しみを最も劇的に表すと指摘する。光と真理が闇と偽りに対して宣言されたとき、世は歓迎よりむしろ拒否と暴力を選んだ。こうしてイエスは十字架上で悲惨な死に追いやられ、弟子たちは散っていった。 しかし福音はここで終わらない。イエスの死は逆説的に人類救いの門を開く鍵となる。張ダビデ牧師は、十字架が「栄光の王座」となったと語り、イエスの死のうちに救いのご計画が完成するという神的逆説を強調する。それは復活の出来事へと続き、イエスが歴史上の悲劇的殉教者にとどまらず、死の力を打ち破ってよみがえられた「生ける希望」の創始者であることを示す。クリスマスの幼子イエスは、それ自体で救いの結実を含むというよりは、十字架と復活へ進む前奏曲、すなわち神が予定されたドラマの始まりであることを、ここで改めて確認できる。 ゆえに張ダビデ牧師は、クリスマスを単に「幼子の誕生」のお祝いとして消費しないよう呼びかける。その幼子が最終的に進まれる道、そしてその道が人類に開いてくださった救いの門を深く黙想する時となるべきだと語る。クリスマスの喜びの背後には十字架の痛みがあり、その苦難はさらに復活の勝利へとつながる。この全過程を見通すとき、私たちは受肉の真の深みをくみ取ることができ、福音が示す「涙と愛と犠牲をとおして完成される真理と恵み」を体験できるようになるというわけだ。 最後に、張ダビデ牧師はクリスマスが毎年巡ってくる記念日である一方で、それは決して「繰り返し」にとどまらず、「新たな更新」であるべきだと説く。救いの恵みは生々しく毎日新しく味わうことができ、その経験が信仰者を世の中で光と塩として生きる原動力となる。依然として多くの人々が闇の中に閉じこもり、死と絶望がはびこる時代において、イエスの受肉は単に二千年前の過去の出来事で終わるのではなく、今日も有効な光として私たちを照らす。私たちはこの光に従って歩み、神の国の働き人として召されているという自覚をもって世へと派遣される。張ダビデ牧師はここを現代教会の宣教的使命と結び付け、「ロゴスが肉となって私たちの内に来られたように、教会もまた福音のメッセージを具体的かつ現実的な言葉と行動に翻訳して世に伝えなければならない」と指摘する。 結局、クリスマスは、愛をもって来られた神を記憶する節目にとどまらず、その愛が教会をとおして地の果てにまで拡大していく宣教の始発点として作用しなければならない。受肉は、この地上の苦難や弱さを無視することなく、みずから背負われた神の決定的行為だったゆえに、教会もまた世の痛みと苦しみを見ているだけでなく、そのただ中に入っていって福音を実践し、証しすべき義務を負うことになる。張ダビデ牧師は「クリスマスを迎えるたびに、教会は世に対する神のケアと救いへの情熱を改めて思い起こすべきだ」と強調し、それによって福音メッセージが単なる宗教的観念ではなく、実際の生活や歴史・文化を変える命の力であることを絶えず確認すべきだと促す。 このように、張ダビデ牧師が語る福音理解は、四福音書それぞれに表れるイエスのアイデンティティとロゴス概念の宣教的拡張、そして受肉の恵みと真理を具体的に結び付けながら、クリスマスを起点として神の救いの物語がいかに壮大で深遠な次元で展開しているかを改めて思い起こさせる。ゆえに読者はクリスマスの季節に幼子イエスの姿を想像し、一時的な感傷に浸るだけで終わらず、イエスが歩まれた道と私たちに与えてくださった救いを自ら体現する生き方へと進むべきことを悟ることができる。福音は過去のある時点の物語ではなく、現在を通過して未来へ向かう生きた真理であり、受肉は今なお私たちの生を揺さぶる衝撃と感動として迫ってくるべきなのである。 張ダビデ牧師が説く、この四つの流れ――四福音書の象徴、太初のロゴスと受肉、恵みと真理の満ちあふれ、そして闇と死の世界を照らす救いの光とクリスマスの意味――は、それぞれ違った角度からの照明のように見えて、最終的には一つの点を指し示している。それこそがイエス・キリスト、そしてその方において展開される宇宙的救いの物語だ。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネが示すイエスの姿は、歴史的・神学的・文化的文脈に応じて多様に表現されているが、行き着く結論は同じである。イエスは永遠の昔から存在し、万物を創造し、私たちのために十字架で死なれ、復活により闇を払いのけていのちの光を確立されたのだ。 この福音が最も決定的に表された瞬間の一つが受肉という出来事であり、受肉は人類が再び創造主のもとへ帰る道を開く始まりとなった。いかに暗い時代であっても、光は奥深くまで入り込むことができるし、罪と死の鎖はイエス・キリストの力のうちで断ち切られ得る。教会はこのメッセージを伝える使命を与えられており、クリスマスはその使命を改めて確認する大切な時期だ。教会の伝統では待降節(アドベント)はイエスの来臨を準備し黙想する期間とされているゆえ、張ダビデ牧師は、この期間に福音書のメッセージを深く掘り下げ、受肉の神学を黙想することで、クリスマスの真の喜びを体験し、それを日常生活の中で実践すべきだと力説する。 最終的に張ダビデ牧師は、単に「受肉」という概念的教義を学び暗記するレベルを超えて、それが人間の存在と生活、社会と歴史全体に及ぼす含意を探る。私たちが以前は罪や恐れ、死の恐怖に囚われていたとき、イエス・キリストが来られて「神の子どもとなる権利」(ヨハネ1:12)を与えてくださったという事実は、宗教的律法主義や形式的儀式主義ではとうてい得られない新しい次元の解放である。信仰者ならば、この救いの喜びを毎日新たにかみしめるべきであり、その喜びは世の価値観に流されるか、あるいは絶望に沈みがちな私たちをもう一度目覚めさせ、光の子として生きるよう導く。 「受肉」は過去のある一時点で終わった出来事ではなく、「キリストと連合」して生きるときに何度でも再現され、教会共同体が世のただ中で福音を実践するときに繰り返し現れる生ける神秘だ。これこそが張ダビデ牧師が絶えず説教と著述を通して伝えようとしている核心メッセージであり、ヨハネ福音書1章を深く探りながらヘレニズム哲学的背景、ユダヤ的契約の伝統、ローマ帝国の世界観などを総合して示す福音解釈の流れである。 そしてそのすべての終着点は「イエスとは何者か」という根源的問いへの回答に帰結する。四福音書は獅子、小牛、人間、鷲という象徴をとおしてイエスのアイデンティティを広く示し、ヨハネ福音書の「初めに言があった」という崇高な文言は、イエスが永遠の昔からおられ、すべての被造物と歴史の主観者であると高らかに宣言する。肉体をもって来られたゆえに、私たちはその方をとおして神の子どもとなり、真のいのちを持ち、真理の道を歩むことができる。クリスマスはこの偉大な事実を祝福する日であり、同時に私たち自身に向かって「この受肉の真理を、自分の人生にどのように取り込んでいるのか」と問いかける神聖な機会なのだ。 張ダビデ牧師は最後に、現代の教会と信仰者へクリスマスを迎えるにあたり「涙なき福音はない」という言葉を再三思い返してほしいと提案する。福音はイエスの涙と犠牲の上に築かれた物語であり、そのイエスを遣わされた父なる神の痛みと愛がにじみ出ている。ゆえに福音を真実に伝え従う者なら、隣人の痛みや世の苦しみに対しても涙を流すことができ、救いのメッセージを「言葉」だけでなく「生き方」をもって証ししなければならないということである。受肉された神は人間の苦しみを傍観せず、最も底辺にまで降りてこられた。その神を礼拝する教会が、世の底辺を見過ごすわけにはいかず、クリスマスを祝うさまざまなイベントも華やかな装飾と音楽、プレゼント交換で終わるのではなく、むしろ疎外された人々を招き、貧しい者たちと共に生きる実践のなかで「言が肉となって宿られた」神の思いを体現することが、クリスマス本来の精神に他ならない。 以上のように四つの主題を通して、張ダビデ牧師が解説する福音メッセージとクリスマスの神学的意義を簡潔に(とはいえ実際にはきわめて深く)概観した。彼が強調するように、四福音書がそれぞれに違って描き出すイエスの御顔は、一人の同じイエス・キリストに収斂し、ヨハネ福音書のロゴス概念はそのイエスの神性を哲学的言語で明らかにする。その受肉の出来事は恵みと真理の満ちあふれをもたらし、闇と死の世界に決定的な光をもたらし、クリスマスはこの救いのドラマが歴史上で開幕した劇的な転換点となる。そしてこれは教会と信仰者が毎年記念する日であると同時に、年々刷新されるべき終末論的希望でもある。 最終的に張ダビデ牧師が繰り返し主張する中心は、受肉が単なる教理の学習対象ではなく、「信仰の出発点にしてすべての基礎」であるという点だ。イエスが人間となられて私たちと共におられるインマヌエルの神秘がなければ、私たちの信仰は結局、人間的な推測や宗教的熱心だけに依存することとなり、そこには命を吹き込むような神の力強いわざは起こらない。受肉こそが「神がいかに私たちを愛しておられるか」を雄弁に示し、私たちがいかに救われたのかを明かしてくれる鍵であり、私たちの現在と未来を根底から変える能力の源なのである。 そしてこの受肉はクリスマスに象徴されるが、十字架と復活、さらに聖霊降臨へとつながる完全な救いの物語の一部でもある。私たちがこの全体像を逃さずにつかむとき、ようやくクリスマスの喜びと復活の希望が結び付き、キリストの再臨まで見据える完全なキリスト教的ビジョンを持てる。張ダビデ牧師は、これをとおして読者に「毎年のクリスマスを、ただ行事やお祭り気分で流し過ごさないように」と挑戦する。むしろこの時期を聖なる黙想と悔い改め、そして救いの感激で満たしつつ、私たちの内におられるイエス・キリストの命を改めて確認し、世に示していくようにと勧めるのである。 結局クリスマスを迎えるにあたり、私たちが覚えるべき真理は、かつて罪と死の支配下にあった私たちのもとへイエスが来られ、今も人生の闇を歩む人々にはなおこの光が必要だということだ。四福音書が示すイエスの姿を統合的に眺めることで、王であられるイエス、しもべであられるイエス、人の子であられるイエス、そして空の鷲のように壮厳なるイエスをすべて発見することができる。ロゴスとしておられた方が肉体をもって降りて来られ、十字架で死んで再びよみがえられ、今や私たちの王であり友であり、救い主として共におられる。これこそがキリスト教福音の全体であり、張ダビデ牧師が多くの説教と文章をとおして繰り返し強調している真理である。 一方、彼が「悲しい物語」と呼ぶ福音が最終的に喜びの知らせとなる理由は、イエス・キリストにあって死が終焉し、いのちへの道が切り開かれたからだ。人間の歴史と存在条件が覆され、滅びの法則に従うしかなかった私たちが、今や永遠の命を希望できるようになった。これは決して人間的努力や知恵で到達できるものではなく、ただ受肉と十字架と復活によって私たちに与えられた贈り物だ。そういう意味でクリスマスは、お祭り以前に崇敬すべき出来事である。無限の神が有限の肉体を取られたという驚き、創造主が被造物の姿でこの地に来られたという神秘こそが、礼拝と賛美の核心となるべきだ。 さらに張ダビデ牧師は、受肉を解説するとき「建物や制度としての教会ではなく、人を探しておられる神」を強調する。神は人の肌着をまとって来られ、私たちと共に食事をし、共に歩み、病を癒し、涙をぬぐわれた。罪人の家にさえ入って共に食卓を囲まれた。こうしたイエスの人間的親密さは、徹底した神性と矛盾するのではなく、むしろ神性の最も豊かな表現として現れる。それは私たちの日常においても「受肉の霊性」を実践すべきことを示唆する。教会の礼拝堂の中だけにとどまらず、世に出ていって苦しみと疎外にいる人々と共に歩み、イエスのようにへりくだり、イエスのように近づくことこそ受肉の霊性の核心だからである。 総括すると、張ダビデ牧師は四福音書が示すイエス・キリストの姿を総合することで、受肉が私たちにどのような変化と救いをもたらすかを多角的に説き明かす。四福音書はそれぞれ異なる読者や目的、状況を考慮しつつ書かれたが、一つの共通点は「イエスが神の子であり人類の救い主である」という信仰告白を一貫して含んでいることだ。ヨハネ福音書はこれをより哲学的で宇宙的な次元で解き明かすのに秀でており、その出発点が「初めに言があった」という命題である。この言がすなわちロゴスであり、このロゴスが肉となって私たちの間に住まわれた。そして私たちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であり、恵みと真理に満ちていた(ヨハネ1:14)。 クリスマスは、この驚くべきロゴスの誕生が歴史上に現れた記念日であり、その始まりがなければ十字架と復活もあり得なかっただろう。だからこそクリスマスは福音全体の核心を先取りして見せてくれる予告編であり、しかも終わりまで貫くテーマであるともいえる。張ダビデ牧師はこの点を思い起こさせつつ、クリスマスがもたらす明るい雰囲気や行事が決して表層的にならないよう注意を促す。クリスマスの光は闇の中に来て闇を追い払う光であるがゆえ、闇の中で絶望する人々に実際に近づく愛の実践が必ず伴わねばならないというのだ。 こうして私たちが今日クリスマスを迎えるとき、その意味を十分に生かすためには、受肉されたイエスを個人の救い主として受け入れるだけでなく、教会が隣人と社会に向けて「愛の手」を差し伸べる共同体的次元へと拡大する必要がある。これこそ受肉の原則に従って世で光として存在する道であり、イエスが残してくださった新しい戒め、すなわち「互いに愛し合いなさい」という命令を現実に守る道である。張ダビデ牧師は、この愛の行動がなければ、どれほど教理が整っていても、またクリスマス行事が盛大でも、受肉の本当の精神からは遠ざかってしまうと警告する。 四福音書の象徴的解釈、ヨハネ福音書のロゴス概念、受肉によって明らかになる恵みと真理、そして闇と死の世界を照らす救いの光としてのイエスとクリスマスの意義を総合してみると、張ダビデ牧師のメッセージはきわめて明快である。「イエスはこの地上に来られ、私たちはその到来を記念し感謝すべきだ。しかしその記念は内面的黙想と同時に、教会共同体と社会のなかで具体的な愛の実践へつながらなければならない。そのとき初めて私たちは真に受肉されたイエスを倣い、その光を世界の果てまで拡張する道具として召されるのだ」。 このようにしてクリスマスは年末に行われる単なる最後の祝祭ではなく、福音の根本原理を繰り返し思い起こし、新しい年に向けて信仰者として生きる決断をする霊的出発点なのである。イエスの受肉がすべてのキリスト者の生を完全に変えたように、この地上にいまだ残る闇と苦難の現場においても、私たちは同じようにへりくだって仕え、人々と共に生き、神の愛を具体化していくことが求められている。 張ダビデ牧師が重ねて強調するように、受肉は「今日」も続いている。イエスは教会のうちに、信仰者のうちに住まわれ、ともに動き語られる。教会はこの受肉的エネルギーをもって世に遣わされるのであり、これこそ「信仰の真の実践」であると言える。王なるイエス、しもべとしてのイエス、人の子としてのイエス、そして空の鷲のように天から下られたイエスと、四つのイメージをあわせて見るとき、私たちの救い主がいかに広大でありながら親密な方であるかを再発見でき、受肉から始まった福音の物語を総合的に味わうことができる。そしてこの福音が内面的変化にとどまらず、家庭や社会、さらには世界の諸国へと拡がっていくとき、クリスマスの光はまことに闇を追い払い、多くの人々を神のもとへ導くいのちの力となるだろう。 こうしたすべてをまとめると、張ダビデ牧師の福音理解は、神学的深みと宣教的熱意を同時に具えている。四福音書を網羅する複合的な解釈、ヘレニズム哲学との接点としてのロゴス概念の導入、受肉の救済史的意義、そして闇のただ中にもたらされた光としてのイエスとクリスマスの実践的意義という四つの主題は、結局ひとつの声で「イエス・キリストを仰ぎ見よ」と私たちを招く。その招きに応える者は、クリスマスに単に伝統と義務をこなすだけでなく、自分が信じ従うイエスとはどんな方で、この地上に来られた目的が何で、その目的が今日わたしと共同体にどんな変革を要求しているのかまでを深く見つめるようになる。 最終的に、受肉は神が歴史のただ中に飛び込まれた出来事であり、人間がもはや自力で自分を救えないという絶望のただ中で出会った希望の実体でもある。十字架と復活をとおして救いは完成したが、その始発点となるクリスマスをとおして私たちは毎年、福音の核心である受肉を繰り返し味わい、福音の現実性を改めて確認する。イエス・キリストが人となり、私たちの罪と苦悩と痛みを実際に担われたゆえに、私たちはもはや恐れに縛られて生きる必要がない。このメッセージを握って生きる信仰共同体こそが教会であり、教会がこの地で果たすべきことは、まさに受肉の真理と、恵みと真理に満ちた姿を世に示すことである。 張ダビデ牧師の教えは、この受肉の信仰が抽象的教理に終わらず、私たちが人間的生活の具体的限界や苦難の現場の中でイエスの愛を具体化するよう促している。受肉こそが「語られる神が沈黙されずに私たちの人生に介入される」ことの最もはっきりした証だからだ。ヨハネ福音書1章に表れたそのロゴスがすなわちイエスであり、イエスにあって私たちは「その栄光を見た。父のひとり子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」(ヨハネ1:14)という宣言を、日々体験するように招かれているのが、今日の信仰者のアイデンティティでもある。 こうして、張ダビデ牧師が受肉を中心テーマに展開する福音メッセージは、私たちを再びイエスの道へと招く。その道は時として狭く険しく、十字架が待ち受けるかもしれないが、最終的には復活の栄光と神の国の完成を約束する道である。クリスマスはその道の始まりを記念する祝日であり、私たちはこの祝日をとおして過去に起きた歴史的事実を追体験しつつ、今も生きておられるイエスを体験し、やがて再び来られるイエスを待ち望む三重の視線をもつことができる。張ダビデ牧師は、この点において受肉が毎年新たに発見され、深められ、広がっていかねばならないと繰り返し訴える。 … Read more

The Incarnation – David Jang

In Matthew’s Gospel, Jesus is strongly depicted as the King of the Jews, hence symbolized by a lion. Indeed, Matthew emphasizes that Jesus Christ inherits the Davidic kingship and fulfills the Abrahamic covenant. The genealogy in Matthew, centered on Abraham and David, reflects the Jewish audience’s concern for lineage, covenant, and the legitimacy of royal … Read more

La Encarnación – David Jang

1. Los símbolos de los cuatro evangelios y la identidad multidimensional de Jesucristo El mensaje del evangelio que proclama el pastor David Jang se apoya en la larga tradición de la Iglesia que relaciona la identidad multidimensional de Jesucristo, tal como se presenta en los cuatro evangelios, con los “cuatro seres vivientes” mencionados en el … Read more