荒野から安息へ – 張ダビデ牧師

1.荒野の旅路と「7年」の意味 ヘブライ人への手紙4章1節から13節に記されている御言葉には、「安息」に関する深遠な教えが込められています。「すでに信じた私たちは、その安息にあずかるのです」(ヘブライ4:3)というこの一節は、神がイエス・キリストを通して私たちに与えてくださる安息とは何か、そしてその安息にあずかる者は誰なのかを明確に示しています。張ダビデ牧師は、この御言葉を土台として、私たちの信仰の旅路において「荒野を通り抜けても安息に入れなかったイスラエルの民」とは異なり、信仰を守り福音をつかんで最後まで走り続ける者には、必ず神が備えておられる安息があると強調してきました。その安息の実質的な意味は、単なる肉体的な休息ではなく、魂が神のうちに得る真の平安です。 この主題は本文に言及される「信仰と従順」の重要性と深く結びついています。ヘブライ書の記者は、荒野での不従順のゆえに安息に入ることができなかった人々(ヘブライ3:19)を例として挙げ、私たちが同じ愚行を犯さないようにと強く警告しています。しかし、この本文がとりわけ強調するのは、「イエス・キリスト」を通して完成される、かつての制度や律法を超越する聖なる安息です。モーセやヨシュアがもたらすレベルの土地(カナン)や休息とは異なり、イエスにあって得られる救いと永遠の休息こそが核心なのです。張ダビデ牧師はこれを「真の安息は、イエスに出会い、その血潮によって罪のゆるしを得たとき、初めて始まる」と力説しました。 詩篇95篇8節以下にある「メリバであったように、荒野のマサであった日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」という部分は、出エジプト記の出来事を思い起こさせる非常に重要な箇所です。出エジプトの民が「水がない」という理由で不平を言い、神を試み、ついには指導者モーセにまで恨み言をぶつけた場面が連想されます。エジプトで奴隷だった彼らが、荒野で命を養われる恵みを受けながら、その感謝をすぐに忘れて不満と激情に戻ってしまう様子は、信仰的にも歴史的にも大きな警鐘を鳴らすものです。 驚くべきことに、そのような民の不平と反抗にもかかわらず、神は岩から水を出して彼らを生かされました。しかし、そのことでモーセは自身の激情をさらけ出し(民数記20:10-12)、その結果、約束の地に自らは直接入れなくなります。ヘブライ3章と4章は、これを詳しく言及しており、不従順とかたくなさの代償がどのようなものかをはっきりと示しています。張ダビデ牧師はここに注目し、「神の前では、民の不平であれ、指導者の激情であれ、いずれも安息に入れなくする障害となり得る」と語ります。これは、神が私たちに何を望んでおられるのかを改めて考えさせる重要なポイントです。 このような文脈で、「7年」という時間は、聖書において幾度も象徴として登場する「7」という数字と自然に重なってきます。創世記では、神は6日間で天地を創造され、7日目に安息されました。安息日(サバス)の起源である「7日目」の意味は、単なる数の問題にとどまらず、創造と被造物、そして贖いの歴史を貫く非常に深遠なテーマです。張ダビデ牧師は早くから「私たちの信仰にも、このような『霊的な7日』の意味を適用できる」と解き明かし、「現実で経験する人生の戦いと苦労は『6日間の労働』にたとえられ、その6日の時間が終わるときにようやく与えられる神の真の安息が、まさにイエス・キリストのうちにある」と主張してきました。 では、具体的に「7年」という旅路は、私たちにどのように適用されるのでしょうか。本日の説教では「過ぎた7年の間、私たちは本当に安息することができなかったが、いよいよ今年7年目を迎えて安息を得ることができた」という告白が登場します。これは、まるで荒野の時を経てついに約束の地に入るイスラエルの民の姿を彷彿とさせます。実際、人生の荒野のような時を通り過ぎる中で、数え切れない試練や困難があり、時には投げ出したくなるほど苦しいこともあったでしょう。しかし、神の導きによって今ここに立っているという「信仰の証言」でもあるわけです。 特にこの過程の中で強調されるのは、「不平を言わなかったこと」と「激情を抑えたこと」です。荒野を歩む間、何かが不足していたり困難があったりすると、人間的には十分に落胆したり恨み言を言いたくなる状況があったかもしれません。しかし、そのような状況でも感謝と賛美で進むことは決して容易ではありません。聖書に見る出エジプト記の民も、エジプトの奴隷生活から劇的に解放された後、少しでも困難が訪れるとすぐに過去を懐かしんだのです。人間は簡単に変わり、簡単に揺らぎます。 しかし、その試練の時を黙々と耐え抜かせてくださるお方が神であり、その方法が「福音」であることが、この説教の重要なメッセージです。もし福音がなかったとしたら、すなわちイエス・キリストの十字架と復活による確信がなかったとしたら、人間的なやり方ではすぐに限界に達してしまったことでしょう。張ダビデ牧師は「多くの御言葉を理解したから勝ったのではない。福音によって神の恵みが私たちのうちに働いてくださったからこそ、不平を克服し、激情を抑え、感謝の心を持続できたのだ」と語ります。これは、十字架の力こそが信仰者に与えられる究極の力であることを明確に思い起こさせます。 この「荒野の旅路」を7年にたとえたとき、その出発点は、おそらく何もなかったマンハッタンの6バークレイ・ストリートでの始まりなのかもしれませんし、人によっては全く別の場所を想定してもよいでしょう。重要なのは、その場所が「荒野のような場所」であったという事実です。経済的にも人材的にも、あるいは環境的にも安定していない状況の中で始まったすべての働きや動きを担いながら、しばしば人間的な恐れも生じ、「失敗するのではないか」という危機が至るところに潜んでいました。そのたびにただ頼ることができたのは、「神が私たちと共におられる」という信仰と、「主が語られればそれで十分だ」という福音への確信だけだった、という証が続きます。 しかし、7年という時間は、長いといえば長く、短いといえば短い期間です。けれども、その期間中、荒野を共に歩んできた人々が確かに存在したということは大きな事実です。まさに、今日の説教で繰り返し強調された「皆さんはモーセの民と同じではなかった。不平を言わず、激情に走らず、神の恵みを忘れず、それを黙想しながら乗り越えた」という部分です。これはヘブライ書が示す「信仰と従順」のモデルに従うことを意味し、すなわちイエス・キリストが与えてくださる安息を決して手放さないという決断の証拠にもなります。 聖書が語る「安息」は、単にあらゆる問題が解決してもうすることがなくなった状態を意味しません。むしろ、完全な安息とは、神が働かれる現場の中で、神の導きに全面的に従う者が味わう霊的平安に近いものです。ネヘミヤ書6章でエルサレムの城壁再建が完成したとき、周辺の異邦の民たちが恐れを抱き、「私たちの神がこのわざを成し遂げられたことを知った」(ネヘミヤ6:16)と告白した場面は、その好例でしょう。あれほど不可能と思われたことが神の力によって成されたという力強い証であり、これは7年の荒野の旅路が安息へとつながる今の状況とも正確に重なります。神がみずからなさったことを周囲の人々が知れば、神の御名があがめられ、自ずと賛美と感謝が湧き上がります。 張ダビデ牧師はこの原理について、「神のわざにおいて、人のありようはさほど重要ではない。私たちに何か誇るべき功績があるからではなく、ただ神の恵みによってすべてが完成するのだ」と繰り返し語ってきました。同時に、「その恵みにすがって進む者には、必ず安息が与えられる」という真理も、見落としてはならない核心として提示されています。これは旧約の出エジプト事件においても示されますが、イエス・キリストによってより完全な形で私たちに与えられています。 荒野のような時間の中で、なぜ怒りを爆発させず、不平を言わず、激情に走るべきでないのでしょうか。それは最終的に、私たちのうちにある罪性や高慢を取り除くための、神の導きへの従順のプロセスだからです。もし心の中に絶えず不平や憤りが満ちているならば、神が備えてくださった安息を味わうことはできません。人間の力だけで不平や怒りを抑え込めると思っても、実際には福音の力なくしては根本的に解決できない問題です。キリストの血潮が私たちを変え、聖霊が私たちのうちで実を結ばせるとき、私たちは真の安息に入る準備が整います。 「私たちの霊的な荒野の7年」を経たのちに迎えるこの「安息の時」は、信仰の共同体にとっても、また個々の信仰の旅路にとっても非常に重要な転換点となります。それは単なる「さあ休もう」という肉体的な解放感ではなく、神が導かれる次のステージの働きや道を力強く歩んでいくための「再充電の時」だからです。イエスにあって与えられる安息は、それ自体が目的であると同時に、未来に向けた備えや新たな使命へと進む足がかりにもなります。 多くの場合、安息は先立つ苦難を通じていっそう輝きを増します。「荒野を経なければ安息の甘さはわからない」という言葉があるように、7年間の荒野生活を通じてようやく「神の恵みはどれほど大きかったのか、福音がどれほど私を支えてくれたのか」を体得するのです。それによって、主が改めて新しい仕事場、新しい共同体、新しい働きの場へと私たちを招かれるとき、私たちは信仰によって進む大胆さを持つことができます。 この点について、張ダビデ牧師は「カナンの地は、約束の成就の地であると同時に、もう一つの霊的な戦いの場でもある」という事実を強調しています。実際、イスラエルの民がカナンに入ってその地を得なければならなかったように、信仰者もイエス・キリストにあって安息を得つつ、この世の中で霊的な戦いを続けなければならないのです。しかし、その出発点が神のうちにあり、その霊的戦いの本質が「すでに勝利されたキリストと共に歩む」ということにあるのですから、私たちは大胆でいられます。何よりも、「安息を味わう姿勢」こそが、私たちへの神の救いのご計画と使命を共に成し遂げていく道だと、説教は語ってくれているのです。 このように「荒野の旅路」は聖書の歴史においても、個人の信仰史においても繰り返される重要な主題です。第一コリント10章でパウロが出エジプトの出来事を取り上げ、「これらのことは模範として書かれ、時の終わりに臨む私たちへの戒めとされた」(参照:第一コリント10:11)と言うのも、ヘブライ書の記者が強調する内容と同じ流れにあります。「彼らが入れなかった安息に、あなたがたは入るのだ」という御言葉は、単に「私たちは彼らと違ってもっと正しい」という主張に帰結しません。むしろ「私たちは彼らの失敗を教訓として、信仰と従順をもって最後まで歩み続けなければならない」というメッセージです。そして、その道を歩む力と能力を与えてくださるのがイエス・キリストにほかならないのです。 本日の説教で「不平を言っていた人たちは、ついにこの地に共に入ることはできなかった。しかし福音によって共に歩んだ私たちは入ってきた」という告白が強調されたのは、まさにこの差です。これは最終的に「十字架と復活の福音をつかんだ人」と「つかんでいない人」の違いです。荒野にいたイスラエルの民が信頼すべきだった方はまさに主なる神でした。同様に私たちもイエス・キリストにより頼み、聖霊の導きを受けなければなりません。その方のうちに成就される約束を信じて歩む者は、たとえ荒野を通ることがあっても、不平や激情で自滅しないのです。 詩篇66篇16節にある「神が私のたましいのためにしてくださったことを私は語り告げよう」という告白のように、私たちは過ぎた7年間の歩みを振り返るとき、人間の功績や計算では説明できない数々の奇跡や実りを発見します。そのような体験は、これから直面するさらに別の7年、いやそれ以上の霊的戦いの最中でも変わらず揺るぎない拠り所となるのです。どこで働こうと、再び荒野が待ち受けようとも、神が導いてくださるのであれば、私たちは「イエス・キリスト」を通して日ごとに安息を味わえます。これこそが張ダビデ牧師が絶えず強調してきた「霊的荒野と安息の原理」であり、究極的には神が私たちに与えようとしておられる「真の休みと救い」を示す証拠なのです。 2.福音の力とイエス・キリストにある勝利 ヘブライ4章後半(4:12-13)に至ると、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通して裁き、心の思いやはかりごとを見分けることができます」という強力な宣言が出てきます。ここには御言葉の持つ威力が示されています。しばしば説教や聖書の学びでこの節を引用する際、その焦点は主として「御言葉が私たちを変え、私たちの内面を見抜く」という点に当てられます。しかし、張ダビデ牧師はさらに踏み込んで「この御言葉は、単なる知識伝達のためではない。私たちに具体的な実践と勝利をもたらす“生きた武器”なのだ」と力説します。 では、その「どんな勝利」なのか。それは私たちの内面に潜む罪や恐れ、不平、激情、憎しみなど、あらゆる悪しき要素を追い払い、最終的には神のうちで真の自由と安息を味わうことのできる勝利を意味しています。御言葉が私たちのうちに働くとき、私たちはその御言葉を通して自己を省みるようになります。「今、自分はなぜ怒っているのか。自分が不平を言う根底にはどんな不信があるのか」。そうした問いを真剣に投げかけることができるようになり、その罪や弱さを悔い改めることで、少しずつキリストに似た聖なる姿へと変えられていくのです。 このような変化をもたらす根本的な原動力は「福音」にあります。福音とは、イエス・キリストの十字架と復活によって完成した救いの知らせであり、すべての信じる者を罪と死から救い出す力です。張ダビデ牧師は「私たちが福音の本質をつかんでいるなら、どのような荒野の状況でも揺るがない力と希望を得られる」と語ります。これはキリストにあって私たちのアイデンティティが刷新されるという事実ともつながります。罪人から義人へ、裁かれる者から神の子どもへと身分が変わった私たちは、もはやこの世の苦難や逆境の前で絶望する存在ではありません。むしろ、その苦難を通して私たちを鍛え、神の偉大さを体験させてくださる神の愛を深く知る旅路へと導かれるのです。 荒野が長く続き、不確かな環境が続くとき、人は誰でも簡単に疲弊し、あきらめの誘惑に陥りがちです。不平や恨み言、あるいは誰かのせいにする態度もよく見られます。しかし、本当に福音をつかみイエス・キリストと共に歩む人は、そのような状況にあっても落胆せずに神に視線を向けます。そして、その結果として与えられるのが「安息への招き」です。 ヘブライ4章3節で「すでに信じた私たちは、その安息にあずかるのです」と断言できるのもこのためです。イエスを信じるとは、単なる知的同意や感情的受容を超えて、私たちの人生全体をその方にゆだねることを意味します。それは時に、モーセの荒野のように過酷な道のりかもしれませんが、その旅の終わりには神の備えられた安息があります。張ダビデ牧師は「その安息に入るカギこそ福音であり、その福音を信じて生き抜くことこそ、信仰者が目指すべき道だ」と何度も強調してきました。 また、福音の力は「神のことば」を通して私たちに届けられます。ヘブライ書の記者が「働きのある御言葉」と表現したように、御言葉にはそれ自体に霊的な動きがあります。それは受動的に読まれる文ではなく、私たちの心を揺り動かし、人生の方向を変えるような積極的な力です。たとえば、詩篇95篇で「もし今日、御声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」と呼びかけている御言葉は、私たちが日常の中で実際に神の声を聞き、すなわち聖霊に導かれるとき、その声に心を開き従うことを促します。その声に逆らえば、荒野の民のように安息に入れない事態が再現されることを警告しているのです。 ここで注目すべきは、いくら御言葉が力強く鋭くても、私たちがその御言葉を拒否したり、聞きたくないと思ったりすれば無力化してしまうという点です。御言葉は私たちを刺し貫き、切り分けますが、私たちが良心の痛みを覚えていながらも悔い改めなければ、何の変化も起こりません。言い換えれば、福音の力と御言葉の持つ働きは、私たちの開かれた心と従順を前提とします。しかし、その従順でさえも人間の意志や善行だけでは不可能です。聖霊の助けが絶対に必要であり、その聖霊を私たちに送ってくださるのがイエス・キリストです。結局、安息に至る道の出発点も完成も、キリストにかかっているということです。 では、福音にある勝利とは具体的にどのような姿でしょうか。荒野を進む途中、神の導きを体験し、その体験が重なるごとに「神は真実なお方だ」という確信が深まっていきます。第一コリント10章でパウロが「私たちの先祖は皆、雲の下にいて海を通り、モーセにつくバプテスマを受け…」と出エジプトの事件を回想するのも、昔の話をただ記憶せよということではありません。それらが今日の私たちに与える霊的教訓を再確認せよということなのです。 私たちが安息に入るために必要なことは、その荒野の旅路で学べます。不平の代わりに賛美を選び、激情の代わりに柔和を選び、不信の代わりに信仰を示す姿勢が積み重なるとき、初めて安息の門は大きく開かれます。それを可能にするカギが福音であり、その福音を受け取った者たちの集まりが教会共同体です。本日の説教で語られたとおり、「私たちの教会、私たちの仲間は荒野を共に歩みながら不平を言わず、ついに入ってきた」という点に、共同体としての安息の意味が表れています。 教会とは、数多くの個人が集まった単なる集合体ではなく、イエス・キリストを頭とする一つの「からだ」です(第一コリント12章)。ゆえに福音の力は「個人」に働くだけでなく、共同体全体にも波及します。張ダビデ牧師は「私たちがお互いを励まし合って共に信仰の道を歩むとき、その過程で経験する試行錯誤や衝突さえも福音のうちに溶け合い、聖なる結実をもたらす」と教えてきました。これは安息へ至る道が個人レベルにとどまらず、共同体的な実践によっても成就されることを意味します。 安息に達したとき、その喜びはまた別の使命の始まりを告げる合図でもあります。ネヘミヤ書6章の場合、城壁の建築が終わると、すべての敵が恐れおののいて落胆しました。これは神が共におられた結果であり、同時に「完成された城壁」という安息の実体を前にして、民が新しい歴史を刻む準備を整えたことを暗示しています。今日の私たちも同じです。7年の苦難を乗り越えて今安息を味わっているなら、その安息は過去の苦労を一挙に忘れさせる慰めとなるだけでなく、これからの大胆なビジョンを抱くための足がかりにもなります。 安息に入ったからといって、これから先、困難が一切なくなるわけではありません。実際、信仰生活は絶えず続く霊的戦いとも言えます。しかし、一度味わった安息の甘さ、そしてその安息を与えてくださった神との親密さは、どのような嵐が襲ってきても耐え抜く力になります。福音に根差す人はキリストの愛から切り離されることはありません(ローマ8:35-39)。安息の体験はこのことを直接確認させてくれ、そのため私たちの信仰の筋力をさらに強くしてくれるのです。 張ダビデ牧師は「イエス・キリストにあって福音をつかむとき、究極的に私たちは勝利へと向かって進んでいく」と再三強調します。それは根拠のない楽天主義ではなく、すでにキリストにあって保証された勝利に立脚しています。イエス・キリストは十字架であらゆる罪と死の権威を打ち砕き、復活によって死に勝利されたので、その方のうちにとどまる者はすでに勝利を約束された状態なのです。安息はその勝利の実りであり、また勝利の過程で私たちが味わえる「オアシス」のような休息でもあります。 問題は、私たちがその福音を日々どれほどつかんで生きているかということです。本日の説教で「多くのことをしているが、そのすべてを御言葉の力で行っている」と宣言したように、御言葉が私たちの歩みを導いていないならば、私たちはすぐに人間的な打算や欲望に陥りがちです。しかし、御言葉に従うならば、どのような環境にあっても不平や激情に流されることはなく、荒野であっても超自然的な供給を経験できます。神が岩から水を出し、マナとウズラを与えられたように、今日の私たちの生活にも奇跡を起こしてくださるでしょう。 そして、その奇跡は常に「神がなさった」という告白を導き出します。ネヘミヤの時代に敵が恐れを抱いたのも、イスラエルの民がすごかったからではなく、その背後におられる神のゆえでした。このように、福音の力によって安息を得ている共同体は、それ自体が世の人々に強力な証となります。「どうしてあのような困難の中でも倒れないのか。どうしてあの人たちは不平や怒りの代わりに賛美と感謝を選ぶのか」という疑問は、そのまま「彼らは福音を土台として生きており、イエス・キリストのうちにあるからだ」という答えにつながります。 したがって、福音の力を実際に体験する生き方は、個人的な証にとどまらず、共同体的、さらには宣教的な効果をもたらします。多くの人が福音を知らなかったり誤解していたりする中で、教会共同体が示す「安息のモデル」「勝利の証拠」は、彼らに福音を知る道を開くのです。こうして私たちは「全世界に福音を伝えよ」(マタイ28:18-20)という地上命令をより大きな次元で担っていくことになります。 イエス・キリストにある勝利は、ヘブライ書が語る安息の約束とも結びつき、その安息は完全な救いにつながる「永遠の休み」であると同時に、日々の生活のうちで経験する「現在的な安息」としても現れます。福音こそがその安息に入る門であり、キリストご自身が「わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)とおっしゃったように、この約束はいつの時代、どの場所、どんな人であろうとも、イエスに近づく者すべてに有効なのです。 張ダビデ牧師が平素から「福音によって生きるとは、イエスを救い主と告白して終わりではない。イエスの血と力によって私たちの日々の生活が完全に変えられることを意味するのだ」と強調してきたのは決して誇張ではありません。実際に、福音が生活を変えないのなら、私たちは荒野の中で不平を繰り返し、激情を爆発させ、モーセの民と同じように倒れる可能性があります。しかし、福音に捕えられ、御言葉に頼り、聖霊の助けを祈り求めるとき、私たちは何度も同じ失敗を繰り返す過去の生き方から抜け出し、安息と勝利の道を歩むことができるのです。 本日の説教の結論は「モーセやヨシュアよりも優れたイエス・キリストが私たちを安息へ招いてくださる。ヘブライ書の記者が示した歴史的な教訓を忘れず、出エジプト記の荒野の出来事や詩篇95篇が警告することを胸に刻み、福音に捕えられて生きよ」というものです。このメッセージは、一時の慰めにとどまらず、信仰の旅路全体を貫く核心的な原理です。そして7年の荒野をくぐり抜けてきた人々の証言が、それを裏付けています。「私たちが勝利できたのは、私たちが神を捕えていたからではなく、神が私たちを捕えていてくださったからだ」という告白が、すべての信仰者の胸に響いている限り、神のうちで得る安息を奪うことは何人にもできません。 張ダビデ牧師が繰り返し宣言するように、「すべての功績は神にあり、私たちはただその恵みに感謝して日々福音に生きるだけ」という結論こそが、ヘブライ4章が与えてくれる最も感動的なメッセージの一つです。そしてこれは将来にも適用される霊的原則です。7年を勝ち得たのなら、さらに別の7年も可能でしょう。いや、70年、700年たっても変わらない真理がここにあります。福音は永遠であり、イエス・キリストが約束された安息は、私たちの信仰によって受け取られる現実なのです。この真理を握りしめ、毎日新たな思いで生きるのが信仰者の特権です。だれもこの安息を脅かすことはできません。私たちが今こそ味わい、そして伝えるべき祝福の知らせが、まさにこの安息であることを心に留めましょう。 www.davidjang.org

十字架による聖殿の回復 – 張ダビデ牧師

イエス・キリストがエルサレム神殿に対して「この神殿を壊してみよ。そうすれば三日で建て直す」(ヨハネ2:19)と仰せになった言葉は、福音書全体の脈絡の中で極めて重要な宣言であり、当時のユダヤ指導層にとっては致命的で挑戦的なメッセージでもあった。この出来事の根本背景を探ると、エルサレム神殿内で行われていた売買行為、供え物の販売、両替商の居座りなどは、単なる「神殿の商業化」ではなく、大祭司やその一族が権力と財を求めて神殿を徹底的に利用していた構造的腐敗であったことがわかる。とりわけアンナスとカヤパ、その一族は神殿のいけにえを独占的に運営し、検察官のような者を使って神殿外で買ってきた生贄に「傷」をあれこれと指摘し、結局、すべての人が高額の生贄を神殿内で買わざるを得ないように仕向けていた。これは貧しい者たちをますます苦しめ、罪の赦しを得るためには、泣く泣く高い生贄を神殿内で買わざるを得なかったのである。ゆえに主の「神殿を壊せ」という発言は、まさにそうした宗教権力者たちの不正と腐敗を鋭く打ち砕く預言的宣言であった。エルサレム神殿を宇宙の中心であり、ユダヤ教の絶対的権威と考えていた人々にとって、この宣言はどれほど不遜で危険に感じられたことだろうか。 張ダビデ牧師は、さまざまな説教や文章を通して、今日この御言葉が私たち自身に対しても依然として強力なメッセージを投げかけていると強調してきた。彼によれば、人間の罪性は「自己中心性」に根ざしており、それは「自分こそが正しい」と主張して他者を排除する態度、あるいは内面に自分を「宇宙の中心」として祭り上げた神殿を築いて、それが崩れることを拒む姿として表出する。古代のユダヤ宗教権力者たちが「エルサレム神殿こそ宇宙の中心であり、だれであっても神殿と祭司の体系に無条件で従わなければならない」と言ったのなら、現代を生きる私たちもまた、目に見える建物や制度、あるいは内的な信念体系を絶対化し、他者との和解を拒み、他人の存在を認めない自己完結的態度に陥りやすい。神殿を壊すようにと命じるイエス様の言葉は、「そのすべての自己中心と頑なさを捨てよ。私は三日で新たな神殿を建てる。それは十字架と復活によって開かれる、霊的で普遍的であり、だれでも入ることのできる真の神殿だ」という宣言である。最終的にキリストにあって私たちは建物によらず、御霊の礼拝と愛に満ちた生の中で神を礼拝するようになる。 ヨハネの福音書2章のこの出来事の後、イエス様は実際にアンナスとカヤパ一族をはじめとする大祭司勢力から激しい反感を買うことになり、それがヨハネ18章以降のイエス様の逮捕と裁判、十字架処刑へと繋がる重要な原因となった。イエス様を捕えて夜中にアンナスのもとへ連れて行ったこと(ヨハネ18:12-13)は、彼らがイエス様を単なる「異端の教師」程度ではなく、自分たちの権威と経済基盤を揺るがす深刻な挑戦者と認識していた証左である。彼らは「神殿を壊せ」と語った発言を偽証人まで立てて問題視し、これはステパノの殉教の際にも同様に適用された「神殿を破壊しようとしている」という罪状へとそのまま引き継がれる(使徒6:13-14)。つまりイエス様もステパノも「この聖なる場所(神殿)と律法に逆らう発言をした。モーセの伝えた掟を改めようとしている」という中傷を受け、それが致命的な裁判の口実とされたのである。 張ダビデ牧師は、私たちが信仰の中でまず悟るべきこととして、イエス様がこのように宗教権力と腐敗に真正面から立ち向かい、最終的に十字架につけられることで「まことの神殿」と「まことの礼拝」を開かれたという事実を挙げる。神殿は神の臨在を象徴する礼拝の場所だが、それが制度や人間の経済的欲望、自己義に満ちてしまうと、すでに神から離れた「空っぽの殻」となりやすい。イエス様ご自身がエルサレム神殿を直接浄め(ヨハネ2:13-17)、神殿権力の腐敗を叱責されただけでなく、「わたしの父の家を商売の家にするな」と宣言されたとき、反発が起きるのは当然であった。その神殿制度によって利益を得ていた人々は、イエス様を決して放っておかず、ついには十字架に追いやった。しかしこの過程においてイエス様は、ご自身の肉体という神殿が壊される苦難を喜んで負い、復活によって新たな神殿の実体を示されたのである。 ここで重要なのは、イエス様がなさった「神殿の清め」は単に建物を掃除する程度ではなく、ご自身の死と結びつく強力な預言的行為であったという点である。イエス様が「この神殿を壊してみよ。三日で建て直す」と仰せになったのは、ご自分の身体を指しておられ(ヨハネ2:19-21)、同時にエルサレムの物理的神殿体制を超える神の救いの計画、すなわちすべての人に開かれる救いの門を示唆する言葉でもあった。張ダビデ牧師によれば、この「壊せ」と仰る言葉には「おまえが握りしめている自己中心的な制度、貪欲と権力、傲慢と不義を打ち砕け。わたしがその十字架の死と復活を通して新しい道を開こう」というイエス様の御声が込められている。そしてこの御声は2000年前の宗教権力だけでなく、制度化され、ときに世襲や財政的欲望、権力志向の文化に染まりやすい今の時代の教会とキリスト者にも等しく適用されるのである。 さらに福音書においてもう一つ印象的な箇所は、ヨハネ8章に登場する姦淫の現場で捕えられた女性の物語であろう。当時の律法によれば、姦淫した者は石打ちにされねばならなかった(レビ20:10、申命記22:20-24)。書記官やパリサイ人たちは「モーセの律法ではこの女を石で打つべきだが、先生はどう考えるか」とイエス様を試し、事実上、律法を守るのか、慈悲を選ぶのかを問い、イエス様の態度を攻撃しようとした。イエス様の答えは「罪のない者が最初に石を投げよ」であり、それは「律法が語る罪と罰の図式」を超える「慈悲と赦し」の法、すなわち福音の核心を示すものであった。イエス様が地面に書かれた内容が正確に何だったかは記録されていないが、伝統的に「赦しなさい」「あなたがた自身の罪を顧みよ」「あなたがたが守れなかった律法とは何なのか」など諸説ある。大切なのはイエス様のこの行動が、パリサイ人と書記官たちに対して「トーラー(律法の核心)をまるきり無視したり廃棄されたりした」のではなく、トーラーが究極的に指し示す神の御心、すなわち憐れみと愛を実現してみせたということである。しかし当時の宗教権力の立場からすると、それは「律法を改変しようとしている」という反逆的企てとして見られ得たし、ステパノにも同じ罪名が適用されたのであった。 結局イエス様はこのように律法を超える愛と慈悲を実際に示されたがゆえに、腐敗した宗教権力や形式的律法主義に縛られた人々から徹底的に排斥された。張ダビデ牧師は、私たちがこの事実を見失うとき、信仰が硬直化し、「自分の神殿」を絶対化し、教会が愛と赦し、そして御霊の自由を失った「商売の家」となり得ると指摘する。どのような形であれ、自分で作り上げた神殿を「宇宙の中心」のように絶対視し始めるとき、キリストの十字架精神は姿を消し、律法的物差しのみが残って互いを裁きあいやすい。そしてこれはエルサレム神殿体制が辿った悲劇の道を教会が繰り返すことになりかねないというのである。 とりわけ使徒の働き2章の聖霊降臨は、イエス様が語られた「新しい神殿」の幕開けを示す。以前は一人の預言者さえ起こらなかった霊的荒廃の時代を生きていた人々に、聖霊が臨むと、120人の弟子たちが同時に神の霊を体験し、異言を語り始めた。当時のユダヤ人にとって「神の霊が下る」のはごく限られた特別な人物だけに可能なことと考えられていたが、今や主の自己犠牲と復活によって「男女の奴隷にもわたしの霊を注ぐ」(ヨエル2:28-29)との預言が成就し、社会的に最も低く見られた層に至るまで差別なく聖霊が注がれるようになった。張ダビデ牧師は、この場面について「主がご自身の神殿を壊されたことによって私たちに開いてくださった恵みの時代、すなわち聖霊の時代だ」と言う。もはやエルサレムという特定の場所でも、その神殿を運営する大祭司体制でもなく、イエス・キリストの十字架と復活によって切り開かれた新たな地平の中で、すべての信じる者が神へ直接近づくことができるようになったのだ。こうして教会はエルサレム神殿中心の排他的な宗教体制ではなく、イエス様を隅の親石として一つの体に築き上げられる霊的共同体となった(エペソ2:20-22)。パウロがエペソ2章で「主ご自身がわれらの平和であり、二つを一つにされた」と述べたとき、その「二つ」はユダヤ人と異邦人であるが、さらに大きく見れば、神殿の「制度的な壁」と聖霊の「自由」との間に横たわる計り知れない断絶、あるいは自己中心性にまみれた全人類の壁をも意味する。主は十字架によってその壁を壊し、新しい創造を開いてくださったのである。 それでは今の私たちに必要なのは何か。張ダビデ牧師は「神殿を壊せ」と仰るイエス様の言葉に、私たち自身が応答すべきだと強調する。古代のユダヤ人のように建物としての神殿を絶対視していないからといって、問題が解決するわけではない。私たちの心と教会共同体の中には、いつの間にか「アンナスとカヤパ一族」のような病理的構造が潜んでいないだろうか。教会が組織化され、大規模化されるほど、あるいは長い伝統をもつ教会であればあるほど、個人や機関の利害関係が絡み合い、世襲や財政問題、権力構造の問題が生じやすい。こうした現実の前で、イエス様が神殿を覆された決断と「わたしの父の家を強盗の巣窟にするな」と仰せられた燃える思い、そして「この神殿を壊せ。わたしは三日で建て直す」という挑戦的メッセージをどのように心に刻むべきだろうか。 張ダビデ牧師は、この問いに対する答えとして「十字架中心の霊性」を説く。イエス様が「神殿というご自身の肉体」を壊されることによって私たちに真のいのちの道を開いてくださり、その道はすなわち自己中心的な罪性を十字架に付けて、隣人と和解し、愛の仕えに献身し、福音の慈悲と自由を実現する生き方へと明らかにされる。十字架はイエス様が最も惨たらしい方法で殺された事件だが、その中にある「ご自身を空しくする愛」は、ついには復活と聖霊降臨へと繋がり、新しい時代を切り開いた。このことを黙想しながら生きる教会であれば、もはや「石の神殿」を建ててそこから自分の利益をむさぼる形態にはならず、むしろ世のただ中でキリストの犠牲と赦しを実践する共同体となるだろう。信仰とは礼拝堂に集まって礼拝をささげることを越えて、人生のあらゆる領域において「神殿を壊せ」と仰せになった主の道―すなわち自己を捨てるへりくだりと愛の仕え―を歩むことである。 さらに「神殿を壊せ」というメッセージは、今日の個人レベルでも深い響きをもたらす。だれしも心の中に「自分のもの」と思いこんでいる絶対不可侵の領域があり、これがすなわち各自の「神殿」となる。それは高慢であったり、物質に対する執着や自己欲望であったり、あるいは家族や民族、国家への過度な自己意識である場合もある。張ダビデ牧師は、そうした心の奥に根をおろした「自己の神殿」を打ち砕かない限り、イエス様が模範として示された十字架の精神を受け入れられないと考える。イエス様がアンナスの家に引き立てられ、カヤパや書記官、パリサイ人たちの前で裁判を受け、やがて十字架の死を迎えられたのは、単に彼らの体面や宗教的慣習を傷つけたからではなく、「おまえが握るその誤った神殿を捨て去れ」と明確に教えられたからであった。だからもし私たちが教会の中だけで信仰生活をしているように見えながら、実は自分の内なる「神殿」は手放さないまま、他人を裁いたり、自分の教理を宇宙の中心であるかのように押しつけるなら、イエス様を十字架につけた人々と大差ない存在になってしまうのだ。 こうしてヨハネの福音書は序盤(2章)でイエス様の神殿清めと「神殿を壊せ」という言葉を配置し、後半(18-19章)でイエス様が実際に逮捕され苦難を受けられる場面と結びつける。これは読者に「なぜイエス様は捕らえられたのか、何と対決し、何のために死なれたのか」という問いを自然に投げかけるように仕向ける構成である。ヨハネはアンナスに引き立てられた理由や、大祭司が弟子たちやイエス様の教えについて尋ねる理由、ステパノの死と似通った罪状など、その背後に潜む宗教権力の本質を詳細に描き出しつつ、同時にイエス様が新たに成し遂げようとされる神の救いこそ、聖霊によってもたらされる「新しい神殿」の建設だということを強調している。最終的にイエス様の肉体が壊されること、すなわち十字架で死なれることによって、復活とともに聖霊による新しい時代が開かれ、その聖霊のうちにだれもが神へ近づける道が用意された――これがヨハネ福音書の結論なのだ。 張ダビデ牧師は、説教においてこの福音のメッセージを過去の歴史的事実や「イエス様が為された偉大な業」としてだけではなく、今の私たちの生活や今日の教会の現実にどう具体化するかを深刻に問いかけるべきだと言う。多くの教会がいまだに人々の目に立派に映る建物を建てることに熱心で、ときにその内部で世俗的価値がはびこり、教権闘争や財政不正、派閥や分裂などにまみれることがある。これは2000年前のエルサレム神殿と少しも変わらない姿かもしれない。だからこそ「神殿を壊せ」というイエス様の言葉は今も私たちを不愉快にする。しかしその不愉快さの中にこそ本当の転回、すなわち悔い改めが起こるなら、教会は真の「祈りの家」「神に出会う空間」として生まれ変わり得る。新生は個人でも同様である。信仰生活が長くても、自分の自我を一度も壊してみたことがないのなら、「神殿という肉体」を壊されて復活されたイエス様の道をまだ歩んでいないのだ。真の福音は単なる信条や知識にとどまらず、自分の欲望と高慢によって築き上げた「神殿」を十字架に下ろす決断によって具体化される。 これに関連して張ダビデ牧師がしばしば引用するのは、エペソ2章の「和睦(平和)」の概念である。パウロは「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにされた。細則にわたる戒めの律法を廃棄された。これは二つのものをキリストのうちで新しい一人の人に造り上げて平和を実現するためだ」(エペソ2:14-15)というように語っている。主ご自身が一つにするために自らを犠牲にされ、その結果として宗教的障壁、人種的差別、身分の違いなどが取り払われたということだ。ゆえに教会の中で互いに争い、分裂する様子、あるいは世の真っ只中で絶えない紛争の姿は、イエス様がご自身の体を裂いて開いてくださった和解の道を踏みにじる行為である。「なぜあの人たちと和解しなければならないのか」と不満を漏らすかもしれない。しかし十字架のメッセージは「主がまず壊されることによって」誰も近づくことができなかった神が私たちに近づいてくださり、また敵対していた者どうしの壁が取り払われる可能性が開かれたということである。ゆえに結局、「神殿を壊せ」という主の要請は「あなたもまた壊されなさい。キリストがあなたのために犠牲となられたように、あなたの中にある排他性と高慢、不義な構造を捨て去り、相手を受け容れなさい」という命令と変わらない。 また聖霊の時代が開かれたという点を忘れてはならない。私たちが本当にイエス様の道を歩もうとしても、自分たちの力だけでは不可能である。初代教会も、復活された主を裏切らないと決心しながら、いざ「最後までわたしに従えるのか」と問われると逃げ出し、イエス様が捕えられる瞬間に散り散りになった弟子たちだった。しかし使徒の働き2章で聖霊が下るやいなや、彼らは大胆に福音を宣べ伝え、過去にあれほど恐れていた宗教指導者たちの前でも後退せず、イエス様の十字架と復活を伝え始めた。ついには命の危機さえも甘んじて受け、「私たちは見たこと、聞いたことを話さないわけにはいきません」(使徒4:20)と告白したのである。これは聖霊が臨まなければできることではなかった。張ダビデ牧師は「神殿を壊せ」との言葉と「聖霊の降臨によって開かれる新たな神殿」を切り離して考えてはならないと言う。律法体制を崩し、制度的神殿を超える道が開かれたのは、最終的に主が十字架上でご自身の肉体という「神殿」を壊されて復活され、それから聖霊を注がれたからである。したがって私たちも主の後を追うとき、聖霊を求め、聖霊の力に頼ってこそ「新しい神殿」を生きることができる。人間的な決意や努力だけではアンナスやカヤパのような世の腐敗、あるいは内面に根ざした欲望に打ち勝てない。聖霊が私たちの神殿を壊し(すなわち自己中心性を捨て)、主の望まれる愛と和解、仕え合う共同体を建て上げるよう助けてくださるという信仰が必要なのである。 張ダビデ牧師は、教会がこの十字架中心の福音と聖霊の働きに真に捕えられるとき、もはや「偽りの宗教」の権力や経済的利害に縛られず、全世界を包み込む「神の神殿」として拡張されるのだと強調する。この神の神殿は石で築かれた建物ではなく、イエス様の血潮によって贖われた私たち一人ひとりと共同体の中に宿る霊的実在であり、その中ではあらゆる民族、階層、男女の奴隷、老若問わず差別なく主の御名をあがめて生きる新たな国が現れる。実際、初代教会が黒人、白人、異邦人、ユダヤ人、男性、女性、奴隷、自由人がみな等しく一つの席でパンを分かち合って集まったのは、1世紀当時の文化からすれば信じられないことだった。しかしそれこそが十字架が打ち壊した障壁の結果であり、聖霊が成し遂げられた奇跡であった。今日の教会もまたその道を歩み続けなければならない。制度的神殿や人間の利己心と傲慢によって築かれた構造、あるいは宗教的形式ばかりを追い求める信仰を壊し、キリストにあって血を流すことのない兄弟愛と相互ケアの教会へと成長していかねばならない。 しかし残念ながら、教会史には「神殿を建て直す」という名目のもとで実際には人間の欲望を築き上げてきたケースが無数にあった。教権や世襲、富の蓄積、教会内部の派閥や争い、世の権力との癒着などが繰り返されてきた。これらは「神殿を壊せ」と仰る主の御声を拒む行為である。またある個人においても、信仰生活を送りながら依然として自分の古い姿や世の価値観を手放さないことがある。表向きには礼拝を捧げ、奉仕をし、「信仰者」を自称していても、実際には自己を否定せず、愛ではなく批判や線引きばかりに陥ってしまうかもしれない。そのような場合、主の言葉「あなたがたの中にある神殿を壊せ。そして三日で再び建て直す」という警告が迫る。三日目の復活はイエス様の権能であり、私たちに与えられる「新たに出発する可能性」だが、その前提としてまず壊されなければ建て直されない。いまだ倒されていないものを再建することはできないからだ。張ダビデ牧師は、この原理は教会改革にも各個人の内的成熟にも当てはまると見る。堕落した教会は徹底的に悔い改め、既存の欲望や構造的矛盾を打ち壊さねばならないし、個人としても自分が握りしめている罪性を完全に主の前に差し出さなければならない。そうして初めて復活の力が教会と人生を新たに建て上げるのである。 「神殿を壊せ」という宣言は、ヨハネ福音書において非常に挑戦的な本文であるが、教会論と救済論、さらに聖霊論を深く統合する中心的な一節とも言える。イエス様がアンナスとカヤパの手に渡されて裁かれながらも「私は公然と世に語った。何も隠れて行わなかった」(ヨハネ18:20)とおっしゃることができた理由は、主がひとときもご自分の利益や野望のために真理を隠さなかったからである。主は最後まで十字架へと進む道を通して真の神殿を建ててくださった。その神殿は「あなたがたの体は聖霊の宮」(Ⅰコリント6:19)というパウロの告白に受け継がれ、「互いに愛し合うならば、それによってすべての人はあなたがたが私の弟子であることを知る」(ヨハネ13:35)という主の教えによって完成される。建物でも制度でもなく、自己犠牲と愛において開かれる共同体こそが神の国の徴である。 張ダビデ牧師は、この教えを韓国教会や世界の教会が新たに悟るべきだと説く。教会世襲の問題や財政問題、成長至上主義や教権争いなどは、エルサレム神殿を通してただ自己を拡大しようとしたアンナスとカヤパの精神と少しも変わらないと指摘する。さらには個人レベルでも、自分の信仰の目的が本当に主に倣い福音を伝え愛を実践することなのか、それとも宗教的慰めを得て宗教という枠組みを利用し、自分の満足や名誉を求めることなのかを省みるべきだと言う。もしこの省察がなければ、宗教という看板のもとで私たちは平気で他人を裁き、あるいは自分より弱い人々を抑圧し、世の権力と妥協することもあり得る。しかし真の福音は常に「私は死んでキリストによって生きる」という十字架の位置を指向し、その結果として聖霊の豊かな実を結ぶようになる(ガラテヤ2:20、5:22-23)。神殿を壊せという御言葉は、すなわち「あなたもその十字架に加わりなさい。そして復活の希望をつかみなさい」という招きであり、この道を歩む人々は、結局、世の既得権や腐敗した体制を喜ばせることはできない。というのも光は闇を暴き、真実は偽りの宗教をさらけ出すからである。したがって犠牲や苦難、さらには殉教の道が続くかもしれないが、まさにそこに神が備えられた真の命が花開く。教会史が証言しているように、ステパノの殉教はキリスト教迫害の幕開けとなったが、同時に散らされた弟子たちがより広い地へ福音を伝えるきっかけにもなった(使徒8:1-4)。このように教会は常に「神殿を壊せ」という主の言葉に対する世の抵抗を受けながらも、そのたびに十字架を握り、聖霊の力によってリバイバル、新たな創造の道を歩んできたのである。 それゆえ私たちも「なぜイエス様は当時の宗教権力と衝突し、何のために死なれたのか」という問いから目を背けず、その答えが「神殿を壊せ」という破格的メッセージと、「律法を改変しようとしている」という誤解を招くほどに愛と慈悲の福音を宣べ伝えたことによるのだと覚えていなければならない。愛は律法よりも大きく、慈悲は裁きに勝つ(ヤコブ2:13)という福音の宣言こそイエス様の教え全体を貫くものであった。そしてイエス様は「あなたがこれを理解し、実践しなさい」と促される。もし私たちがこのメッセージを真に受け入れるなら、教会内にある無数の壁が、世の差別や憎しみが、また自分の中の頑固さや欲望が壊されるだろう。そして主の約束通り、三日目に再び建てられる「新しい神殿」、すなわち十字架と復活の共同体がこの地に現れるのである。 張ダビデ牧師は、これこそが教会の未来であり、同時に教会が過去から引き継ぎ続けてきた本質的な召しであると解釈する。教会は建物でも特定宗派でも人間的権力でもなく、十字架を通してイエス様の自己犠牲を生きる人々の集まりだ。この人々は社会的弱者を排斥するどころかむしろ受けとめて仕え合い、互いの違いを超える愛によって一致を示す。現代の教会が時にこの召しを忘れているとしても、聖霊の働きは今なお拒むことのできない力で教会を新しく形作っていく。教会の使命とは、世の価値観を神殿の中にそのまま取り込み、成功と繁栄を礼賛することではなく、むしろ「神殿を壊せ」という主の宣言通り、世のあらゆる障壁と不義を取り払って新しい創造の道を切り開くことである。そのためには私たちの祈りが天におられる神を「利用」する道具ではなく、自分の内なる神殿を打ち壊して神の御心に完全に服従する姿勢へ向かう必要がある。イエス様が清められた神殿こそ「万民の祈りの家」(マタイ21:13、イザヤ56:7)であり、そこでは既得権勢力や権威主義的秩序ではなく、徹底して身を低くし、疎外された者を高くされる神の正義と憐れみが流れている。 ヨハネ2章と18章を中心に、「神殿を壊せ」というイエス様の言葉が当時の宗教権力者たちとの対立を引き起こした直接の理由であり、なぜイエス様が捕らえられ苦しまれ、十字架につけられたのかを理解する重要な鍵となる。またヨハネ8章の姦淫の女に対するイエス様の態度や、使徒7章でステパノが「この人が神殿を壊そうとしている」との罪状で石打ちにされて殉教する場面などは、律法的・宗教的制度の絶対性に挑み、愛と慈悲、そして聖霊の自由を宣言する福音がいかに大きな反発を呼び起こすかを劇的に示している。しかしイエス様はそうした反発と拒否の中でも最後まで十字架を負うことによって、究極的に真の神殿と新しい時代を開かれた。今日の教会と信徒は、この出来事を教会史上の過去ではなく生きた現実として受け止めなければならない。「神殿を壊せ」という御言葉は決して昔の話ではなく、今の私たちに対してもなお宣言されている。イエス様の体のように私たちの内なる「自己中心の神殿」を壊すとき、主は私たちの共同体の中に新しい神殿を建ててくださる。その神殿こそ「互いに愛し合え」という戒めのうちで一つとなり、聖霊に従って歩み、貧しい人や病む人を顧みるイエス様の教会であり、「私がキリストとともに死に、そして生きる」福音の力が具体化される現場でもある。 張ダビデ牧師は、この核心を捉えて多くの説教や著作を通して繰り返し強調してきた。いくら教会が成長し、素晴らしい建物を建てても、キリストの十字架の精神と聖霊の自由がなければ、そこはすでに死んだ神殿である。反対に目に見える建物が立派でなく、人数が少なくても、そこに十字架の愛が実践され聖霊の炎が生きていれば、そここそ神が住まわれる新しい神殿である。結局、大切なのは建物ではなく人が神殿であり、私たちの中でイエス様の道が生き生きと働いているかどうかにかかっている。私たちはエルサレム神殿を宇宙の中心と盲信していた昔のユダヤ人たちの姿から教訓を得なければならない。自己中心性と優越意識、形式的な宗教性に満ちると、いざ神が遣わしたメシアさえ拒み、「神殿を壊せ」という言葉を冒涜とみなし死へ追いやる悲劇を招く。それがかつてのユダヤ指導層の姿であり、私たちも同じ落とし穴に陥る可能性がある。ゆえに「神殿を壊せ」という主の招きに対して敏感に目を覚ましていなければならない。私の心や教会、そして教団やキリスト教文化のうちに誤って築かれた「偽りの神殿」はないかをよく調べ、もしあるなら素直に従って壊さなければならない。そしてその場所に主が再び築いてくださる、三日目の復活とともに始まる新しい神殿を待ち望むべきである。 イエス様が示してくださった道は、自己犠牲とへりくだり、そして聖霊のうちに開かれる普遍的な愛であった。それを見習うことこそ信徒に対する最も本質的な要請であり、教会が存在する理由でもある。もし私たちが福音の核心を見失い、外面的な華やかさばかり追求し、制度的神殿体制に安住するならば、2000年前の腐敗した宗教権力者たちと変わらずイエス様を拒む道を行くしかない。しかし「神殿を壊せ」と仰る主の御声に耳を傾け、自己を否定し十字架を負って、聖霊の力に頼って愛と赦し、仕え合いを実践するなら、そこに驚くべきいのちの働きが花開く。それこそが「新しい神殿」の姿である。張ダビデ牧師はこのメッセージを繰り返し強調しながら、信徒と教会指導者たちが真に自己献身と悔い改め、そして聖霊の働きを切望する姿へ進むよう訴えてきた。彼がいつも強調するのは「主が私たちに下さった恵みはあまりにも大きく、その恵みの中で私たちもまた自己を否定しなければならない」ということである。自己中心性を手放すことは決して容易ではないが、十字架を通してイエス様がすでにその道を開いてくださり、聖霊が共にいてくださると約束されているからこそ、私たちはその道を歩むことができるのだ。 ヨハネ2章の神殿清めと「神殿を壊せ」という宣言、そしてヨハネ18章(アンナスとカヤパの陰謀、イエス様の逮捕と尋問)へと続く流れは、なぜイエス様が十字架につけられるしかなかったのか、何が真の神殿であり、礼拝と律法の本質は何であるのか、そして神の憐れみと愛がいかに偉大であるかを端的に示している。イエス様が復活されることによって、その驚くべき福音はあらゆる障壁を打ち砕き、差別なく聖霊によって異邦人とユダヤ人を一つに結びつける新しい共同体を誕生させた。張ダビデ牧師をはじめ多くの神学者や牧師たちは、教会がこの福音の精神を完全に回復すれば、かつてのようなリバイバルといのちの働きを再び体験できると確信している。教会史において、真に十字架を握りしめ、聖霊の御臨在を求めるたびに、常に新しい覚醒と改革が起こってきたからだ。ゆえに「神殿を壊せ。わたしは三日でこれを建て直す」という御言葉は決して破壊的な宣言ではなく、回復と再創造の宣言である。主がご自分の体を裂いて死なれることでその宣言を成就し、復活と聖霊降臨をもってそれを完成され、今や私たちにもその道を辿りなさいと招いておられる。それこそが福音の核心であり、教会の究極的使命である。そしてこの道において私たちはイエス様のように宗教権力者の反発や世の拒否に直面するかもしれないが、やがて主がくださる永遠の命と平和にあずかることになるだろう。「神殿を壊せ」との御言葉を今改めて心に刻み、自分の内と教会の中にどんな神殿を保持してきたのか、そして主の新しい神殿に入るために何を手放すべきかを深く黙想しなければならない。これは十字架の道を辿るすべてのキリスト者が日々悩み、決断すべき事柄であり、その道こそイエス・キリストの道なのである。 www.davidjang.org

ステパノの殉教 – 張ダビデ牧師

聖霊の働きと初代教会モデル 使徒の働き6章は、初代教会がどのようにして成長し、内部の葛藤を解決し、またどのように教会の構造を整えていったのかをよく示している代表的な本文である。張ダビデ牧師はこの箇所を中心に、聖霊の働きが最初の教会をいかに形づくり、その中で起こった問題と解決の過程をどのように聖書的に捉えるべきかを強調してきた。彼は、使徒の働き全体が教会の成長と聖霊の働きに関する鍵を含んでいると言い、復活の信仰に満たされて大胆に福音を証しする時、多くの人々が教会に押し寄せてくるが、その際に教会内での救済や奉仕の問題を体系的に備えなければならないと力説する。 6章1節には「そのころ、弟子の数が増えてきたが…」という一節が出てくる。これはリバイバルの時期に多くの人々が教会へ流入したことを意味する。復活されたイエスを証しし、聖霊の強力な臨在が共にあったことで、人々の恐れは消え去り、大胆さが生まれ、福音が急速に広まったのである。初代教会の信徒たちは復活の信仰に満たされただけでなく、悔い改めて聖霊を受けたことによって福音を伝えることへの恐れがほとんどなかった。その結果、エルサレムの至る所から多くの人が教会に押し寄せ、自然に弟子の数も増加したのである。 しかし、信者の数が爆発的に増えれば、教会内部でさまざまな問題が起こるのは当然の流れだ。使徒の働き6章で初めて登場する内部葛藤は、ギリシア語を話すユダヤ人のやもめたち(ヘレニスト系ユダヤ人)が、救済(いわゆる「パンの分配」)から除外されていると不満を言い始めた事件である。ギリシア語を使うユダヤ人とは、主にヘレニズム文化圏に住んでいたユダヤ人を指し、彼らの中には年老いてから「郷に帰りたい」という思いでエルサレムに戻ってくる人々も多かった。エルサレムには神殿があり、その地は神の約束と臨在を象徴していたため、老人ややもめ、貧しい人々がそこに集まることがよくあった。一方、エルサレム在住の元々の住民は主にアラム語(ヘブライ語系)を話しており、こうした言語・文化的差異が教会の中でも「ヘレニスト系ユダヤ人」と「ヘブライ系ユダヤ人」という二つのグループを自然に形成していたのである。 問題は「パンの問題」、すなわち救済の事柄から引き起こされた。ユダヤ教の伝統では、金曜の夕方になると貧しい隣人にパンを配る習慣があった。初代教会もこの美しい伝統を受け継ぎ、共同体全体で助け合おうとしたが、信徒数が増えるにつれ、一部の人々が取り残されたり排除されたりする事態が起こり得た。ギリシア語を話すユダヤ人のやもめたちは、毎日の救済から漏れてしまうことが繰り返されると、ヘブライ系の人々に対し不満を訴え始めた。ここには、共同体内にある言語や文化の違いがそのまま表面化しており、たとえリバイバルの真っただ中であっても、人間的な衝突は起こり得るのだという生々しい事例でもある。 張ダビデ牧師は、この箇所を解説しながら「教会が成長するときに真っ先にすべきことは“システムをつくること”」だと強調する。教会という共同体は霊的な面と現実的な面が共存している。みことばを教え、祈りに専念する人が必要である一方、救済や財政を担当して運営し、食物を供給する人材も不可欠だ。前線宣教と後方支援が同時に存在しなければならないように、食卓を用意する人がいればこそ、みことばを聞く人々も安心して説教に集中できるというわけである。ルカの福音書10章に登場するマルタとマリアの話も、この観点から理解できる。マリアがみことばを聞くことに集中するのは尊いが、食卓を整えるマルタもまた尊い務めを担っている。教会が多くの人々を伝道して成長すれば、必然的に「食べて生きていく」部分をどう解決するかという課題がついて回るのである。 初代教会はこの問題を解決するために、十二使徒がすべての弟子を呼び集めて大事を問い、共に協議した。誰か一人が指示するのではなく、公平かつ公開的に共同体の声を聞いてまとめ、その上で結論を導いた。そして、その結論は「私たちが神のみことばを後回しにして食卓の世話をするのは正しくない」というものだった。すなわち、みことばと祈りに専念すべき使徒たちには、救済業務を担当する新しい働き手が必要だと感じたのである。ここで登場するのが、私たちが一般的に「執事(ディアコノス、ギリシア語でディアコノスあるいはディコン)」と呼ぶ概念である。 張ダビデ牧師は、この過程を指しながら「教会成長の原則は使徒の働きに見いだせる」としばしば述べる。彼の説教によると、教会が大きく成長したなら、必ず管理と奉仕の体制が必要になり、それが正しく作動する時、共同体の中の不満や文句が最小限に抑えられるという。その実例として、彼自身が韓国で開拓教会を立ち上げた時の話をよく引用する。数十名から百名ほどまでは何とか互いに食事や財政を分け合いながらやってきたが、それ以上に人数が増え始めると、具体的なシステムがなければもはや対応できなかったというのだ。そのため、初めのうちは自ら食器洗い用のスポンジを売り歩いて教会の財政を補ったり、互いが互いを助け合う仕組みを作るために知恵を絞ったと語っている。 さらに張ダビデ牧師は、「教会の成長は経営手法や世俗的な戦略だけでは成し遂げられない」とも語る。福音が広まり、聖霊が人々の心を動かしてリバイバルを起こすのは、根本的に神のわざであるため、外面に現れる運営方式の前に、まず神のみことばに従って教会を建て、祈りとみことばの働き、奉仕の働きがバランスよく保たれるように力を注がねばならないというのだ。初代教会が示したモデルに従えば、みことばの働き手(使徒たち)はみことばの宣教と祈りに専念し、救済や財政・行政を担当する人々(執事)が体制を整えて混乱を最小限にすれば、自然と不満は減り教会がますます旺盛になる。結局、教会がある一面だけを強調したり、特定の分野の専門家だけに集中したりするのではなく、前線と後方、祈りと行政府門、教えと奉仕が調和をなす時に、真の共同体が築かれるというのが要点だ。 張ダビデ牧師は、この箇所をさらに掘り下げて「教会には多様な職分とタラントが必要である」と説く。イエスの十二弟子の中でイスカリオテのユダが財政を任されていたが、結局は霊的な知恵に欠けており、金銭問題でつまずいてしまったことがその例として挙げられる。教会でお金や救済業務を担当する人ほど、いっそう聖霊と知恵に満たされていなければならず、その責任は決して軽くないというのだ。そうでなければ、ユダのようにつまずきやすい。したがって初代教会が執事を立てる時も「聖霊と知恵に満ち、評判の良い人」を選び、その中でステパノのような人物が登場していたことは非常に示唆的である。 まとめると、聖霊が建てられた初代教会のモデルは、次のような原理を示している。復活の信仰をもつ人々が大胆に福音を伝えると、多くの人々が教会に集まってくる。しかし人数が急増するにつれ、行政的・財政的問題や救済問題など現実的な困難が噴出する。教会の指導者たちはその問題を解決するため、すべての人を呼び集めて公正に議論し、執事を選んで救済業務を分担させる。すると「神のみことばはますます広がり、エルサレムにいる弟子の数は非常に増え、祭司たちの大勢もこの道に従った」(使徒6:7)という結末に至る。これは適切な分業と奉仕の構造が整えられた時、教会の成長がさらに堅固になったことを意味する。そしてこの流れの中で、ステパノのような卓越した人物が現れ、福音をさらに拡大していくことになるわけだ。 張ダビデ牧師は、使徒の働き6章で終わらず、その後ステパノが説教し、そして殉教する瞬間までに初代教会が経験した旅路に注目している。ステパノの死が一種の起爆点となって、福音がエルサレムからユダとサマリア、さらに地の果てへと広がっていく局面転換が起こる。そしてその背後には、常に聖霊の強力な働きがあることを強調している。これは教会内で問題が起きたとしても、神が許される方向に従って解決していけば、むしろさらに新たなリバイバルと拡大が起こり得るという逆説を示唆する。 張ダビデ牧師は、また自らが率いてきた数々の宣教の事例を通して、初代教会モデルを現代的に適用するとどれほど驚くべきことが起こるかを証しすることが多い。たとえば、教会がグローバル・ミッション・ハブへと変化していく過程においても、「祈る人」「みことばを教える人」だけでなく、「財政を担当し、救済を担って仕える人」が共に交わってこそ成り立つのだと語る。さらに医療チーム、建築チーム、預言的な働き、さまざまな専門職の献身者たちが緊密に協力し合ってこそ、今日の時代に適した教会を建て上げることができると力説する。聖霊に満たされた人であれば、それぞれが任された場所で喜んで仕え、互いを通してより豊かな恵みを享受できるというのである。 特に彼は、過去に各地に分教会や支部をつくった際、最初は皆が「どうやってあれだけ多くの人の食事や財政を賄うのか」と心配したが、結局は神が備えてくださる方法があることを体験したと話す。ある場合は自ら物品を売って財源を確保し、また別の場合は後方を担う信徒たちが懸命に働いて得た収益を前線の宣教師たちに送ったという。これらのすべてが、いわば「ディアコノス(執事)的精神」のもとで行われたことだと説明する。そして、このような教会の姿こそが、使徒の働きが証言する初代教会の原型だと確信しているのである。 このように教会の成長は、祈りの力と聖霊の能力だけあれば自動的に実現するのではなく、具体的な奉仕や救済がうまく組織・運営される時にそのシナジーが最大化される。初代教会が示した理想的な協力モデルは、「マルタとマリアが共に暮らしていた家」のように、お互いの仕え合いを尊び合い、尊重する時に正しく機能する。みことばを教える人々はさらにみことばに集中でき、奉仕と救済を担う人々は財政や食事、生活全般を支え、共同体を下支えする。しかし、どちらか一方がうまく機能しないと、共同体はすぐにバランスを失い、不満や不平が高まる恐れがある。 その要諦は、「聖霊と知恵に満ちた人を立てること」である。みことばであれ救済であれ、どの働きであっても、まず聖霊に満たされることが最優先でなければ揺るがない献身はできない。特に財政や行政の働きには知恵が求められる。霊的洞察なしに財政や人を取り扱うと、目先の数字や利益だけを見てつまずきやすい。しかし聖霊に満ちることを土台に置いて人を立てる時、教会は不満のない平安と喜びに溢れるようになる。その結果、「神のみことばがますます広がり」(使徒6:7)、地域全体に福音が広がっていく。 張ダビデ牧師は過去に、自分がアメリカやヨーロッパ、アジア各地で宣教を拡大してきたプロセスを振り返り、そこにはいつもディアコノス的な人物たちがいたと回顧する。彼らは財政、運営、救済、行政などを担い、見えないところで教会をしっかりと支えてくれた。彼が「前で福音を伝え、祈り、教える役割」を担えたのも、こうした後方で物心両面にわたり支援してくれる献身者たちのおかげだと語る。だからこそ常に「前線の宣教が尊いなら、後方の宣教も尊い」と強調する。前線で活躍する働き人が輝くためには、後方の助けが絶え間なく続かなければならないからである。 こうした一連の過程を通じて、最終的に教会は神のみことばに満たされ、成長という実を結ぶ道が開かれる。使徒の働き6章7節はその結末を象徴的に示している。「神のみことばはますます広がり、エルサレムにいる弟子の数はさらに増え、多くの祭司たちもこの道に従った」。それまでは一般大衆中心に教会が拡大していたが、今や祭司という宗教的指導層さえも福音を受け入れるようになった。これは教会の成長が単なる数的増加だけでなく、社会的な影響力にまで及んだことを意味する。そして、その起点には一見些細に見えたが決して些細ではなかった「救済とパンの問題解決」があったのである。 張ダビデ牧師はこれを「パンがなければ福音も力を失う」と表現する。人々が食べて生きる問題を軽視すれば、神の愛を具体的に体感しにくい。逆にみことばだけを強調し、実際の支援や救済をおろそかにすると、教会が世に伝えるメッセージは空虚になりかねない。初代教会がすべての財産を共有して、貧しい人が一人もいなかったという事実(使徒2:44-45、4:34-35)は、この二重のバランスがいかに大切かを強調している。張ダビデ牧師はまさにこの原理を現代の教会に適用すべきだと力説し、教会開拓を準備する人々やすでに教会を運営している人々に対して、使徒の働き6章が示す教訓を決して見逃さないようにと助言する。 一方で、彼がたびたび指摘するもう一つの要点は「リバイバルの瞬間には必ず試練も来る」ということだ。使徒の働き6章で教会内に不満が噴出したように、大きな成長の時期こそが葛藤の生まれる時期でもある。しかし、その時をうまく乗り越えれば、教会は一段階さらに成長し、強固になる契機を得る。教会がただ前進するだけで止まるのではなく、試練や葛藤を経験し、それを信仰によって解決する時、その共同体はより深く広い霊的土台を築くことができるのだ。ゆえに「恐れずに神の法則どおりに運営し、人を立てる際は聖霊の満たしと知恵を基準とせよ」というのが、彼の一貫したメッセージである。 張ダビデ牧師はこの原則を、国内外の多様な教会や宣教現場に適用してきた。どの地域で教会を建てる際も、まずその地域社会のニーズを調べ、救済と奉仕を通じて福音の門を開くやり方を取った。そうして人々が集まると、彼らと共に祈り、みことばを教えるチームを育てて教会の霊的基盤を確かなものにした。同時に、財政と行政を担ってくれるディアコノスのチームを積極的に育成し、共同体が自立できるよう導いた。必要に応じて文化宣教、医療宣教、教育宣教も並行し、多角的に成長できる生態系を作り上げた。そしてある地域が健全に根を下ろすと、さらに別の地域へと宣教の範囲が広がっていく。これは初代教会がエルサレムから始まり、ユダとサマリア、そして地の果てへと広がっていったのとよく似ている。 結局、このようなプロセスを経てリバイバルの実が結ばれると、教会の中には多様な職分と賜物が共存するようになる。ある者は祈りやみことばの働きに、ある者は救済や行政に、またある者は医療や教育、宣教に特化した才能を発揮する。張ダビデ牧師はこれを「教会の中に七つの燭台があるように、さまざまな領域が調和する姿」と表現する。燭台が一つだけ明るく光っても十分ではない。七つの燭台がまんべんなく光をともすことで、その光はより広い範囲を明るく照らすことになるのだ。 彼はこの原理を「SCRIBE 400」のような言葉でさらに展開して説明することもある。かつて孔子が200人を連れて論議したという故事を引き合いに出し、教会でもみことば研究と対話を共にできる中核的人材が必要だというのである。ただしこれは単なる知識の交換ではなく、聖霊の導きの中で深いみことばの分かち合いと祈りが随時行われなければならない。そしてその過程で、互いが「神のかたち」によって造られた本質的な平等を忘れないことが大切だと説く。使徒の働き6章で、十二使徒たちも教会員全員を呼び集めて意見を聞き、結論を出したという事実は、初代教会がその中で差別のない平等と開かれた構造をすでに実践していたことを示唆している。 張ダビデ牧師は、このように聖書の提示する原理を「聖書どおりに教会をつくろう」という旗印のもとで実践してきたし、これからもその道を歩んでいくと宣言する。彼が30年以上にわたって宣教活動を展開しながら、韓国、日本、中国、アメリカ、ヨーロッパなどへと拡大してきた歩みの中には、常に使徒の働き6章の洞察があった。事実、彼が導く共同体は世界各都市で、みことばの働きチーム(祈りと伝道、教える働きを担当)とディアコノスチーム(救済、後方支援、財政、運営)を適切に配置しながら成長してきた。そして今なお、そのシステムを研究・改善しながら、神の国がさらに広がるよう努めている。 もちろん、その過程で人間的な弱さや葛藤、状況的な制約に直面することも多々あった。しかし彼は「初代教会も同じ困難を経験した」という事実を思い起こし、落胆する代わりに祈りとみことばに立ち返って聖霊の導きを求めた。ゆえに、教会内に問題が起きた時こそ「この問題によって教会がさらに体制を整える機会となるだろう」と考え、積極的に対処した。信徒たちも次第に使徒の働き6章のモデルを学び、執事という職分の重要性と重みを理解するようになり、共に祈り仕えながら教会を建て上げていった。 結論として、張ダビデ牧師は使徒の働き6章に描かれる教会の成長と救済、そして執事制度の登場を通して、現代の教会が進むべき方向がはっきり示されると強調する。みことばと祈りの働き、そして救済と奉仕の働きがバランスを保つ時、不満が消え去り、「神のみことばがますます広がって」弟子の数がさらに増えるというリバイバルが起こる。そのリバイバルは単なる数の成長ではなく、祭司たちさえも福音に従わせるような強力な影響力につながる。これこそ初代教会が示してくれたモデルであり、現代の教会が回復すべき中心的な核であり、張ダビデ牧師が一貫して唱え、説いてきたキーワードである。 彼は最後に、このすべてを一言でまとめるなら「聖書どおりにやる」という言葉だと伝えている。「教会は聖書どおりにつくればいい。聖霊が最初に教会をどのように形づくったのか、その道と秘訣をよく読み、解釈し、適用すれば、誰でも教会の成長を目の当たりにできる」。これが、彼が使徒の働き6章に向き合うたびに説く要点であり、初代教会の歴史を再現しようとする決意でもある。教会が復活の信仰に満ち、聖霊に満たされることを慕い求め、みことばを教える人々と、奉仕と救済を担う人々が緊密に協力すれば、おのずと恐れない大胆な証しが起こり、人々が押し寄せ、そのことで生じる葛藤がむしろ教会がさらに体制を整える機会となる。その繰り返しによって教会はますます強くなり、ついには全世界に福音が伝えられるのである。 張ダビデ牧師はこのビジョンを抱き、国内外で数多くの教会開拓と宣教、ディアコノスの働きを導いてきたし、これからも聖書が提示する通りに教会を建てていくことを願っている。これこそが教会の危機を克服し、リバイバルを持続する最も安全で確実な道だというのだ。初代教会はすでにその解答を私たちに示しており、その原則に忠実に従うなら、現代のいかなる文化圏・時代環境においても十分に成長し得る。そしてその中心に、使徒の働き6章のモデルを握り、休むことなく仕え、教えを行う人々の上に神の驚くべき働きが必ず望むと、彼は確信している。 ディアコノス(執事)の役割と共同体 使徒の働き6章は、教会史上初めて「執事」という職分が公式に立てられた非常に重要な場面を扱っている。教会が急速に拡大する中で、「救済」という実際的なケアの領域を管理する人材が必要となり、その結果「聖霊と知恵に満ち、評判の良い人を七人選ぶ」という方法で按手されることによって執事職が確立された。この七人の中で最も注目を浴びるのがステパノであり、ピリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身のニコラオも共に指名された。 張ダビデ牧師は、この場面を解釈しながら、執事という職分は単なる奉仕・行政業務だけを担当する下位の職では決してなく、教会内で非常に重要な責務を負う人々であると説く。初代教会が執事を立てる際に「聖霊と知恵に満ちた者」という基準を設けた事実がそれを物語っている。これは教会の財政や救済を取り扱うことが、霊的にも現実的にも重大な課題であるという認識の表れだ。執事は教会共同体の内部でパンを分け合い、貧しい人をケアし、財政を透明かつ効率的に管理する。このように現実的なケアが行われる時、みことばの働き手(使徒たち)は祈りと宣教に専念できるようになる。 張ダビデ牧師は現代の教会においても「執事を正しく立てること」が教会成長に欠かせない要素だと力説する。彼にとって「執事」とは、ある程度教会が成長してから形式的に任命する職分ではなく、教会が最初から考慮すべき柱のような存在である。開拓教会を始めて信徒が増え始めたら、財政と救済を専任してくれる人を探し、立てるべきだ。しかし誰でもいいわけではなく、ステパノのように熱い霊性と優れた知恵を兼ね備えた人物でなければ、ギリシア語系とヘブライ語系のユダヤ人の不満を仲裁できないからである。 特に張ダビデ牧師は、かつて韓国で開拓教会をした際、教会財政が足りず、自ら食器洗い用のスポンジを売り歩いて生計を立てた経験をよく例に挙げる。最終的には「教会がある段階になると“執事的役割”をする人々が絶対に必要だ」と痛感したという。スポンジを売り歩いた時期は文字通り開拓初期の「緊急対処モード」にすぎず、長期的には最も理想的な体制ではなかった。「みことばを伝える者が同時に救済業務も兼任するのには明らかな限界がある」というわけである。だからこそ執事職に任命された人々が運営と救済を担当すれば、牧師やみことばの働き手はより専心して祈りと教えに取り組むことができる。実際、初代教会がこのモデルを具現したからこそ、エルサレム教会は内的葛藤を克服してさらに大きく成長したのである。 また張ダビデ牧師は、執事を「前線宣教と後方宣教をつなぐ中枢的存在」とも捉えている。教会が前線宣教、すなわち世界へと広がっていく時、後方からの物質的・霊的支援がきちんと行き届かねばならない。これは軍隊で言えば兵站支援に相当する。だから執事たちは全方面にわたって「供給線」を整え、管理する役割を果たす。教会が拡大すれば、おのずと救済対象が増え、財政支出も大きくなり、運営が複雑化する。この時、執事たちがうまく立てられていれば、混乱なくシステム的に拡張していける。しかしそうでなければ、いくらリバイバルが起きても内部から亀裂が生じてしまうだろう。 張ダビデ牧師はここで「聖霊と知恵の満たし」が決定的に重要だという。宣教に携わる中で、財政問題によってつまずくケースはいくらでもある。イスカリオテのユダがイエスの弟子の一人として財政を任されたが、結局は霊的レベルが伴わず、金銭問題で倒れてしまった例が典型だ。しかしステパノは全く逆だ。彼は執事として選ばれたにもかかわらず、説教にも優れた力を示し、ユダヤ教の宗教権力者たちと議論しても全く退くことなく、知恵とみことばに満ちていた。これは初代教会が「誰でも救済業務だけやればいい」というように適当な人選をしたのではなく、徹底して霊的原則に従っていたことを証明している。 現代の教会も同様である。単に財政の専門家や行政の専門家だからといって執事を任せてはならない。彼らが教会財政を担当する時、正しい霊的視点と聖霊の導きを求めなければ、教会が世俗的な損得勘定に流される可能性がある。逆に霊的には燃えていても、財政観念や知恵がない人が担当すれば、運営がずさんになる恐れがある。だからこそ「聖霊」と「知恵」双方が不可欠なのである。そのような人こそが「評判の良い人」、すなわち教会共同体の内外で信頼を得ている人物になり、真の意味で執事の働きをまっとうできる。 張ダビデ牧師は執事の役割について「マルタとマリアで言えばマルタに該当するが、同時に霊的洞察も必要とされる人」と定義する。マルタがいなければ食卓は整わないが、同時にみことばの本質を見失わないようにイエスの教えにも心を開いていなければならない。教会の救済と行政が単なる奉仕で終わってしまうと、聖霊の働きを体験できない可能性がある。だが初代教会のように救済とみことば、霊性と行政が相乗効果を発揮すれば、その共同体は内外ともに大きく成長することになる。 張ダビデ牧師が運営している複数の宣教団体や教会を見れば、こうした部分にかなり力を注いでいることがうかがえる。財政の透明性と効率性、そして具体的な救済計画を立てる際にも、全員が祈り、霊的に分別したうえで進めている。単なる理事会や運営委員会が世の経営手法で決定するのではなく、聖霊に頼り、信徒たちの知恵を集めて合意する方法を取る。これを担当する中心チームこそが執事の役割を担う者たちである。彼らはしばしば集まって会議し、現場の状況や必要を確認し、どこにどの程度救済や財政を割り当てるかを見極める。その結果、教会は安定して基盤を築き、リバイバルが持続的に起こるのだという。 さらに、張ダビデ牧師は「ディアコノス(執事)」というギリシア語自体に含まれる「仕える者」という意味をより深く黙想し、それが教会のほかの働きと同列に重要であると強調する。執事職がしっかりと確立されている教会は、小さな部分にまで行き届いた奉仕の文化が自然と形成される。そうすることで、人々は教会の中で「差別のない聖霊の共同体」を体感し、教会は「神の愛が具体的に実践される現場」となるのである。 結局、教会が大きくなるほど、執事の役割はさらに重要性を増す。初代教会はこの事実を誰よりも早く認識したし、現代の教会もその道を進まねばならない。使徒の働き6章は、このような執事職がなぜ必要で、どう立てるべきか、またどんな実りを期待できるのかをよく示している本文であり、同時に張ダビデ牧師が継続的に説教し適用してきた重要メッセージでもある。 教会成長の道と今日への適用 張ダビデ牧師は、使徒の働き6章が示す原則を現代の教会が積極的に受け入れるべきだと主張している。彼が繰り返し語る核心は「聖霊が初めて教会を建てられた時に示してくださったパターンに従えば、どの時代、どの場所でも教会は成長できる」という点だ。実際、彼の宣教の現場を見れば、福音伝道と祈り、さらに体系的な救済と奉仕をバランスよく推進し、それらすべてを支える「執事」の役割のチームをしっかり立てた時に、驚くべき成長が起こった事例を確認できる。 まず、教会が基本として握るべき大前提は「復活の信仰に満たされ、大胆に福音を伝えること」である。使徒の働き2章から5章にかけて、初代教会が復活されたイエスを伝えた時、その驚くべき知らせに多くの群衆が教会に殺到した。復活の信仰が確かなものであれば、世に対する恐れがなくなり、大胆な証しが可能になる。この証しが爆発的な力を持つようになると、教会の外面的な増加が急速に進むのである。張ダビデ牧師は言う。「教会成長は結局、復活の力を確信する人がどれだけいるかによって始まる。彼らには死でさえも恐れるものではないという確信があるので、むしろ世の方が教会を恐れるようになるのだ」と。 しかし、このように人々が押し寄せリバイバルが起こると、必然的に食べて生きる問題、救済と奉仕の問題が表面化する。初代教会はそれをエルサレムのやもめたちの救済問題で体感したが、現代の教会も同じく多くの要望とケアの必要性に直面する。ここで教会がどのような選択をするかが重要になる。張ダビデ牧師は「もし使徒たち自身が救済や財政を担当してしまうと、みことば宣教と祈りの火が消えてしまう恐れがある」として、初代教会が示したように「救済と財政を専門的に担当する執事を立て、システムを確立せよ」と助言する。そして、その基準は「聖霊と知恵に満ち、共同体内外で評判の良い人」でなければならないという。 これは決して容易なことではない。初代教会もギリシア語を使うユダヤ人執事を立てる過程で、言語や文化の違いをどのように調和させるか頭を悩ませたはずだ。しかし、その過程を透明かつ賢明に進めるならば、多民族・多文化の時代を生きる現代の教会でも十分に適用可能だというのが、張ダビデ牧師の見解である。彼は実際に多国籍の信徒が集う共同体で、一部は英語を話し、一部は現地語を話し、また一部は韓国語その他の言語を使うという状況の中、彼らの間の葛藤を調整し助ける執事が立てられた時、はるかに安定的で持続的な成長が起こったと述べている。 このように体制が整えられると、教会は内的に充実し、外的にも成長する好循環が生まれる。使徒の働き6章7節が「みことばが広まって、弟子の数がいちじるしく増え、祭司たちも多くこの道に従った」と証言する通り、現代の教会もまた、救済と奉仕の体制がうまく機能すれば、みことばの働きがさらに勢いを増す。信徒たちは教会の中で実際的な助けやケアを体験すると同時に、強力な福音メッセージと祈りの力に触れることができる。教会は文字通り「神の国をこの地上に実現する現場」となるのである。 張ダビデ牧師は特に「祭司の大勢がこの道に従った」という部分に注目する。これは宗教的支配層だった祭司たちまでもが福音の力の前にひれ伏し、悔い改めたという意味である。つまり教会の成長は、単なる外面的な人数の増加にとどまらず、社会的・宗教的リーダー層にまで影響を与えるほど強力なものになったことを示している。彼はこの場面を引用し、「教会が社会全体に良い影響を及ぼすためには、『みことば+祈り+救済+奉仕』の四つの柱がバランスを保たなければならない」と強調する。どれか一つでも欠ければ、教会が社会に対して的確なインパクトを与えられず、ただ騒がしいだけの共同体に堕する危険があるというのだ。 さらに教会が安定して成長すると、次の段階として「世界宣教への扉が開かれる」と語る。初代教会がエルサレムからアンティオキア、そしてローマへと進み、地中海全域を福音化していったように、現代の教会も一つの地域でリバイバルの土台を築けば、その力をもって別の地域に宣教センターを打ち立てることができる。その際にも、各教会にディアコノスのチームがあれば互いに物的・人的資源を共有し、協力していくことで、より広範囲な宣教が可能になる。張ダビデ牧師はこの構造をすでにいくつもの大陸で試み、ある程度の成功を収めており、今後もさらに拡大していきたいと考えている。 彼はしばしば「この時代は福音の危機ではなく、教会が聖書どおりに組織されていないことの危機だ」と言う。「真理はすでに私たちに与えられており、聖霊の力にも限りはないが、私たちが使徒の働きが提示する教会体制を無視して、人間的なやり方で運営しているから問題が起きるのだ」というのだ。したがって今日の教会がすべきことは「使徒の働きを読み、そのモデルを解釈し、積極的に現場に適用すること」。もちろん文化や時代背景の違いから、1世紀のエルサレム教会をそのままコピーすることはできないが、原則は同じだという。みことばの働き手、祈りの働き手、救済と財政を担当する者、医療や教育、さらに預言的な宣言や建築など、各領域を担う人々を立て、バランスよく協力すれば、教会は「キリストの体」として健やかに機能する。 張ダビデ牧師は、これこそが「教会の危機を克服し、真のリバイバルへと向かう道」だと明言する。彼が数十年にわたり歩んできた宣教の軌跡も、このみことばを実際に生きようとする歩みだった。多くの困難はあったが、使徒の働き6章の教訓を掴み、ディアコノスのチームを立てて救済と奉仕の枠組みを備えると、教会には川のように恵みが流れ込み、不満や葛藤は次第に消え、みことばの伝道や宣教が多くの実を結ぶようになるという。 最後に、彼は「私たちは皆、聖霊が導かれる初代教会の栄光を夢見るべきだ」と強調する。人間の教会ではなく聖霊の教会、人間の方法ではなく聖書の方法に立ち返らなければ教会は生き残れない。そういう意味で、使徒の働き6章は現代のすべての教会に与えられた神のメッセージであるといえる。教会は今なお成長し得るし、リバイバルし得るし、社会の壁を越えて福音を広めることができる。ただし、その過程において「執事」をはじめとする多様なタラントを適切に活かす必要がある。そうして初代教会が経験したように、「神のみことばがますます広がり、信じる者の数がさらに増え、ついには既存の宗教指導者たちまでもが福音に従う」という偉大な歴史を再び実現することができるのである。 張ダビデ牧師は、このメッセージを今後も変わらず語り続けると話す。そして彼の教えに従う人々も、教会が聖書どおりに建てられ運営される時に起こる驚くべきリバイバルとダイナミズムを直接目の当たりにしながら、神の御業は決して一時代にとどまらないことを思い知らされる。初代教会が歩んだ道は、21世紀の現代教会にも依然として有効であり、さらに強力な形で実現しうる。それこそが、彼が説く「使徒の働き6章における教会成長の秘密」であり、「聖霊と知恵に満ちたディアコノスの働き」の核心であり、教会が世の闇の中で光を放つための根本的な土台なのである。 www.davidjang.org

福音の地平 ― 張ダビデ牧師

Ⅰ.使徒の働き11章の背景と、ユダヤ人教会・異邦人教会の葛藤 使徒の働き11章は、初代教会内部で起きた最も重要な転換点のひとつを示す場面として、ユダヤ人教会と異邦人教会のあいだに生じた葛藤と、その克服過程を生々しく描いている。本章を注解しながら、張ダビデ牧師は「仕切りの壁を打ち壊して」という核心的な表現を通して、福音がもつ和解と連合の本質を強調する。実際、使徒の働き11章には、ペテロが異邦人コルネリオの家で福音を伝え、食卓を共にしたことが知られると、ユダヤにいる使徒や信徒たちが大きな衝撃を受ける場面が登場する。彼らは「異邦人も御言葉を受けた」という知らせを聞いて、ユダヤ人固有の律法的基準と伝統、そして選民意識が揺らぐことを恐れたのである。この恐れは当時のユダヤ人にとって非常に根深いもので、律法を中心とした聖なる境界と純潔性の維持が、彼らの共同体アイデンティティの核心を成していたからだ。 張ダビデ牧師は、この「律法的境界」と「選民意識」が初代教会の内部でどのように作用し、なぜこれほど大きな衝撃と葛藤をもたらしたのかに注目する。律法はイスラエルの民に与えられた神の御言葉であり、「聖なる民としての基準」だった。彼らは長年「異邦人との食卓交わり」を忌避していた。なぜなら、異邦人はしばしば汚れた食物を食べ、偶像礼拝の儀式に従い、律法を守らない者たちであるという認識が強かったからである。ゆえにユダヤ人クリスチャンにとって、長く守ってきた敬虔な生活様式や規定が、異邦人と交わるや否や損なわれるのではないかという不安は極めて現実的だった。そのような背景の中で、コルネリオの家で起こった「異邦人も福音を受け、聖霊を体験する」というニュースは、単なる神学的驚きではなく、伝統と文化そのものが揺らぐ重大事件として受け止められたのである。 張ダビデ牧師は、この出来事が単に「文化の違い」や「人種の違い」による葛藤ではなく、律法と福音のあいだにある緊張から噴出した結果ととらえる。イエス・キリストがすでに十字架を通して「新しい契約」への道を開いてくださったにもかかわらず、初代教会の多くのユダヤ人信徒たちはイエスをメシアと信じつつも、依然として律法遵守とユダヤ的伝統に強く固執していた。事実、信仰生活の全領域で「トーラー(律法)に従う」ことは彼らのアイデンティティそのものだったため、「異邦人も神の民となり得る」という宣言は、容易には受け入れがたい内容であった。そのため、ペテロが異邦人コルネリオと食卓を共にしたという事実だけでも、エルサレム教会の「割礼を受けた者たち」が激しく非難したのである(使徒11:2-3)。 張ダビデ牧師はここで、「選民」という意識がどのように福音伝播の障害となり得るか、そして同時にいかにして神の計画の中で再解釈されねばならないのかを深く分析する。ユダヤ人がもっていた選民意識は、本来「神の救いの計画を世に示すために特別に召された民」という性格を帯びていたが、ある時点から排他的な形へと固まり、「異邦人は救いの対象から外れるかもしれない」という誤った極端さに流れてしまったというのである。そのような排他性が、イエス・キリストの十字架の出来事を経た後も維持され続けるならば、教会が担うはずの宣教使命は深刻に損なわれるほかない。したがって、使徒の働き11章の葛藤は、「福音が異邦の世界へ広がっていくために必要な必然的な産みの苦しみであり、教会が一段階成長へ踏み出す出発点だった」と張ダビデ牧師は説明する。 実際、使徒11:2-3は「割礼を受けた者たちが非難した」という表現を使い、この葛藤がいかに深刻だったかをありありと示している。「非難(힐난)」という言葉には、ただ疑問を呈するというより相手を貶め、律法を破ったと断定して裁くようなニュアンスが含まれる。ユダヤ人中心の教会が激しい反発を示したのは、彼らがペテロの行動を「律法を捨てた行為」として捉えたためだった。しかしペテロは、こうした批判に直面した際も、自分個人の意見や感情を先立たせるのではなく、「神がご自身でお示しになったこと」を一つひとつ説明していく。これによって、葛藤の本質は「人間的偏見」にあるのではなく、実は「神の救いの計画がどこまで及ぶのか」という神学的・霊的な観点にあることが明らかになる。 張ダビデ牧師は、ここに現代の教会が宣教の現場で経験する葛藤にも重要な示唆があると語る。教会が福音を伝える際、宣教者は時に自らの信仰上の伝統や文化的背景を「絶対化」して、福音を受ける人々に一方的に押し付ける態度を取りがちである。その場合、福音は「神の恵み」ではなく「文化的帝国主義」あるいは「霊的強要」のように見えてしまう危険がある。逆に福音を受ける側にしても、「私たちは何もわからないから言われるままに従わなければ」という無条件の服従だけを強調してしまうと、真の福音の自由が実現されにくい。ユダヤ人教会と異邦人教会の葛藤は、まさに「宣教する者とされる者」が抱えうるゆがんだ態度がどれほど大きな壁を作り得るかを生々しく示している。そしてその壁は「ただ十字架のうちにあって」こそ打ち壊される、と張ダビデ牧師は力説する。 使徒の働き11章前半で起こった葛藤は、「なぜ異邦人にも福音が伝えられ、彼らはどのように同じ救いの恵みにあずかるのか?」という問いを中心に展開していく。ユダヤ人たちは「割礼と律法の順守」によってヤハウェの民として区別されると信じ、異邦人はその基準に合致しないがゆえ「清くない者」とみなされた。しかしペテロはコルネリオの家で福音を伝えた瞬間、彼らも同じように聖霊の働きを体験していることを確認した。しかもそれは、使徒の働き2章でユダヤ人信徒が聖霊降臨によって経験したのと「まったく同じ現象」だと気づく。人間の基準で「汚れている」「清い」を区別しているが、神はすでに異邦人を清くし(使徒10:15)、福音への門を大きく開いておられたのである。 張ダビデ牧師はこの事実に注目し、教会が「律法」や「伝統」を大切に思うとしても、その伝統が十字架の恵みを覆い隠す道具にならないよう常に警戒せねばならないと助言する。ユダヤ人教会が当初感じた衝撃と排他性は、今日でも繰り返されうる。たとえば、長年教会に通っている信徒や、特定の教団伝統が固い共同体において、新たに福音を受け入れた人(「異邦人」にたとえられる人)が入ってくる時、衝突が起こる可能性は大いにある。その際、最も重要なのは「誰が正しいか、誰が間違っているか」を問いただすことではなく、「すでに神によって新しくされた彼らを、私たちが共に交わる者として受け入れ、対等な兄弟姉妹として認めるのか」という問いである。張ダビデ牧師は、使徒の働き11章に見るこの教訓が現代教会でもなお切実だと力説する。 とりわけ、葛藤が解決へ向かう過程を見ると、ペテロが単に「私にもわからないから神に聞いてみてくれ」と投げ出すのではなく、「初めから順を追って説明した」(使徒11:4)と記されている点が印象的だ。これは初代教会内で起きた葛藤を解きほぐす模範的な方法である。ペテロは自らの体験——すなわちヨッパでの幻、コルネリオが送った人々との出会い、福音を伝えた時に起こった聖霊の働き——を一つひとつ示していく。その説明はユダヤ人の兄弟姉妹たちの理解を促し、その結果エルサレム教会は「神は異邦人にもいのちに至る悔い改めをお与えになったのだ」(使徒11:18)と告白することになる。張ダビデ牧師は、これを「反目が連合へと変わる劇的瞬間」であり、福音がもつ普遍的性質が歴史の中で具現された出来事と評価している。 結局、使徒の働き11章前半に表れたユダヤ人中心教会と異邦人教会の葛藤は、旧約時代から続いてきた「選民意識」と律法的伝統、そして「新しい契約」の福音とが衝突しながら生じた当然の産みの苦しみだった。しかしこの苦しみが「新たなリバイバル」の導火線となったという点が決定的である。ペテロの個人的体験ではなく、「神ご自身が示されたご計画」であることを教会が受け入れるやいなや、彼らはようやく「仕切りの壁が打ち壊された」と宣言する。そしてそれは教会が宣教の領土を広げていく上での礎となる。張ダビデ牧師はこの過程を、「神があらかじめ備えておられた福音の地平を初代教会が発見した出来事」と定義する。要するに、この場面は単なる歴史的エピソードにとどまらず、今日の教会が「新しい時代を迎えるたびに繰り返し思い悩むべき核心テーマ」を含んでいる。それはすなわち「私たちは果たして、福音の本質を中心に置き、あらゆる民族・文化・世代を包み込めるのか?」という問いである。 こうして使徒の働き11章の葛藤背景を整理すると、自然に二つ目の大きなテーマが浮かび上がってくる。それは「ペテロの幻」と、その幻が示す「神の直接的介入」である。これこそが初代教会の葛藤を解決へ導く決定的なきっかけであり、同時にこれからの教会が宣教をどう理解すべきかという青写真を提示している。張ダビデ牧師は、この出来事を根拠に、教会が人間の偏見や律法主義を乗り越えていく道を探るべきだと強調する。では次に、使徒の働き11章の中盤でペテロが繰り返し説明する幻の体験と、そこに秘められた福音の本質を見ていくことにしよう。 Ⅱ.ペテロの幻と宣教の本質 使徒の働き11章でペテロは、エルサレム教会が自分を非難した時、すでに使徒の働き10章で語られていたコルネリオ事件の全容をあらためて詳細に説明する。その核心は、ヨッパでの幻の体験である。ペテロが祈りの中で見たところ、大きな布のような器が天から下りてきて、律法上汚れているとされるあらゆる動物がそこに満ちており、「立ち上がって食べなさい」という声が聞こえた(使徒11:5-7)。ペテロは「汚れたものや清くないものは食べたことがない」と拒むが、同じ声が三度繰り返され、そのすぐ後でコルネリオが遣わした人々が彼を探しに来る。こうしてペテロは「ためらわずに共に行きなさい」という聖霊の指示に従うことになる。 張ダビデ牧師は、この幻の場面に表れる神の意図を「偏見と排他性を打ち砕くこと」と解釈する。ペテロは生まれながらのユダヤ人で、一生涯律法の規定に従い、汚れた食物を口にしなかった人物である。ところが幻の中で神ご自身が「神が清めたものを汚れていると言ってはならない」と三度も強調されたのは、従来のユダヤ的観念がいかに強固であったかを示すと同時に、その壁を打ち破らねばならないという神の明確な宣言でもある。律法自体が悪いわけではないが、その律法的伝統が異邦人への福音宣教を阻む壁となってはいけないというメッセージが込められているのだ。 この点で張ダビデ牧師は、「教会が伝統や神学的固定観念にとらわれ、福音の躍動性と自由を制限してはいないか」を自問すべきだと指摘する。ペテロですら自分の伝統的基準ゆえに「異邦人と食卓を囲む」という発想を大いにためらった。ガラテヤ2章に記された出来事――ペテロが異邦人と共に食事をしながらも、ユダヤ人が来ると席を避けた――が示すように、彼はしばらくの間、律法主義的態度と福音の自由の間で揺れ動いた。しかし使徒の働き10~11章を通して、神ご自身が「異邦人をも清められる」ということを体験したことで、「神は人を見かけで差別されない」(使徒10:34)という根本的真理に目を開かれるに至ったのである。 張ダビデ牧師はここから、「宣教における最大の障害は往々にして、送り手と受け手のあいだにある優越感・劣等感」であると説く。教会が宣教地へ福音を伝える時、言語や文化、神学体系が進んでいる側がそうでない側に一方的に君臨してしまう場合が多い。それは初代教会の時代にも、「割礼を受けたユダヤ人教会」の方が「割礼を受けていない異邦人」に比べて霊的・道徳的に上だ、とみなす意識が蔓延していたことと同型である。しかしコルネリオ事件が明かすように、異邦人も同じく聖霊を受け、神の恵みにあずかる資格がある。その資格は律法的行いや宗教的実績ではなく、「イエス・キリストを信じる信仰」に基づく。だからこそペテロが「私が話し始めたとき、聖霊が彼らに臨まれたのは、初めに私たちに臨まれたのと同様であった」(使徒11:15)と告白した時、それは「異邦人にもいのちに至る悔い改めをお与えになった」との結論へ直結するのである。 この論理をさらに広げて、張ダビデ牧師は「宣教の本質」を再定義する。一般には宣教というと「新しい土地に教会を建て、福音を教える過程」というイメージを抱きがちだが、もっと根本的に見れば宣教とは「神がすでに働いておられる現場に、教会が参加すること」である。ペテロがコルネリオの家へ行った時、コルネリオはすでに神を畏れる人であり、その家庭は福音に対して開かれていた。神は彼らに祈りの応答を与え、天使を通じてペテロを招くよう導いておられた。つまり、異邦の地だからといって神が全く働いていないのではなく、むしろそのただ中で聖霊のわざはすでに進行していたのだ。 ここを張ダビデ牧師は「神の招きに教会が応答する瞬間」と呼ぶ。教会が自分たちのやり方で福音を押し付けるのではなく、「神が清められたものを汚れているとみなさない」という視点で世界を見る時、真の宣教的突破口が開かれる。これは現代においても同様である。特定の文化や宗教的背景をもつ人々の中に見られる霊的渇望や神の賜物を、教会が「これは私たちのスタイルではないから受け入れられない」と排斥してしまえば、むしろ宣教は行き詰まってしまう。だが「すでに神がそこでも働いておられる」という信仰をもって近づけば、互いへの尊重と歓待によって福音の真の力が表されるのである。 ペテロがコルネリオの家で経験した出来事は、具体的には「ユダヤ人に聖霊が臨んだのとまったく同じ方法で、異邦人にも聖霊が臨んだ」ことであった。張ダビデ牧師はこれを「福音の平等性」と呼ぶ。ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、男も女も――すべてがキリスト・イエスにあって一つとなる(ガラテヤ3:28)というのが教会の理想である。エルサレム教会は当初こそ衝撃を受けたが、最終的にはペテロの説明を聞いて「神が異邦人にもいのちに至る悔い改めをお与えになった」という事実を受け入れるに至ったのは、この理想が実際の歴史の中で実現したことを示す。 最終的に、張ダビデ牧師が強調するポイントは「教会が神の視点で世界を見る時、真の宣教が始まる」ということだ。もし人間的な基準(律法、文化、伝統、偏見)だけに頼っていたら、教会は異邦世界に自由に福音を届けることは決してできない。たとえ伝えたとしても「私たちが上で、あなたたちは教えられるべき下」といった優越的態度を取りがちである。しかしペテロが幻を通して学んだのは、「神がなさることを人間の尺度で妨げられない」という点であった。彼はこの事実をエルサレムの兄弟姉妹たちに証言し、その証言を通じて教会内部にあった堅牢な壁が崩れ落ちたのである。 こうした流れを整理すると、使徒の働き11章におけるペテロの幻のエピソードは、初代教会が抱えていた「律法主義と選民意識」を克服する上で決定的な役割を果たした。そしてさらに「福音はイスラエルの内だけにとどまるものではなく、全世界へ拡大していく」という神の壮大なご計画を教会に提示した。張ダビデ牧師はこの過程を「教会が福音宣教の本質、すなわち十字架の恵みと聖霊の働きをあらためて悟る契機」と呼んでいる。十字架は「ユダヤ人か異邦人かを問わず罪人に注がれる神の愛のしるし」であり、聖霊はその福音が全世界へ広がっていく原動力である。「信仰によって義とされる」というローマ書のテーマは、使徒の働き11章においても同様に立証されているのだ。 現代の教会もこの場面を鏡として見るべきである。福音を早くから受け取った教会(ユダヤ人に相当)は、時に長い歴史と伝統に対するプライドが大きくなり、あとから福音を受ける側や文化的に大きく異なる共同体(異邦人に相当)を簡単には受け入れられない場合がある。また新たに福音を受ける側も、自らを劣っていると見なしたり、逆に既存の教会を軽視して争いを起こしたりする恐れがある。張ダビデ牧師は「高慢も劣等感も、ともに福音の敵」だと断言する。なぜなら福音にあって私たちはみな平等な恵みにあずかり、それぞれが異なる形で神の召しに応答しているからである。 さらに、宣教現場でしばしば起こる「文化的衝突」を扱うときにも、この原理は重要となる。言語や慣習、食文化などに違いがあっても、「神がすでにその地で働いておられる」という信仰の上に立てば、教会は相手を歓待し尊重する態度を取ることができる。その時、福音は抑圧ではなく解放となり、文化支配ではなく文化の刷新へ道を開いていく。張ダビデ牧師はこれを「食卓交わり」という概念でたとえることがある。イエス様が罪人や取税人と共に食事をされたように、教会も自分と背景が異なる人々を食卓へ招き、福音の歓待を身体で実践すべきだというのである。 総合すると、ペテロの幻とコルネリオ事件、そしてエルサレム教会でなされた釈明が示す核心は以下の通りである。第一に、福音は特定の民族や伝統に縛られない。第二に、聖霊は教会の想定外の場所、想定外の人々にも注がれる。第三に、教会は人間的な偏見や垣根を打ち壊し、「神がすでに清められた場所」へ躊躇なく踏み出すべきである。第四に、その過程で生じる葛藤は、最終的に神のご計画をさらに明確に示す機会となるということだ。張ダビデ牧師は、このメッセージには時代を超える力があると繰り返し強調する。 こうした葛藤の背景と解決過程を見渡すと、自然に「教会が異邦地域へ本格的に広がるうえで、決定的拠点となったのはどこか」という点に注目が移る。それが使徒の働き11章後半に登場するアンティオキア教会である。この教会は混合された文化と多様な人種が共存する都市で誕生し、やがてパウロとバルナバを派遣することで本格的な世界宣教の前哨基地となる。張ダビデ牧師はアンティオキア教会の出現と成長過程を通して、教会が実践すべき「預言者的役割」と「相互協力のモデル」を明らかにしていく。そしてアンティオキア教会の事例は、単なる初代教会の昔話ではなく、今日においても教会が「福音の地平」を広げていく際に常に参考にすべき指針であることを示唆する。したがって最後の第三の小見出しでは、アンティオキア教会の誕生背景と、その中で光を放った預言者の役割、さらにエルサレム教会との協力がいかなる相乗効果を生んだのかを重点的に考察してみよう。 Ⅲ.アンティオキア教会の誕生と預言者の役割 使徒の働き11章後半(19~30節)は、初代教会が「ステパノのことが原因で起こった迫害」により散っていった人々が、異邦地域に本格的に福音を伝える場面を示している。ベニゲ、キプロス、そしてアンティオキアに至るまで散らされた信徒たちは、初めはユダヤ人にだけ福音を語っていた(使徒11:19)。これは「ユダヤ人中心」の伝道方式が依然として強く維持されていたことを意味する。ところが使徒11:20で、キプロス人やクレネ人のある人々がギリシア人にも福音を伝えたという重要な転換点が言及される。まさにここから「アンティオキア教会」が誕生する火種が生まれたのである。使徒の働きの筆者は、彼らが名もなき平信徒――あるいは専門の使徒系譜に属さない無名の伝道者――であったことを仄めかす。張ダビデ牧師はこれに注目し、「異邦宣教の決定的な始まりには、普通の信徒たちの自発的献身があった」と評価する。 アンティオキアは当時、ローマ、アレクサンドリアに次ぐローマ帝国第三の都市である。そこには交易路が発達し、さまざまな人種や文化が共存していた。ユダヤ人ディアスポラも相当数住んでいたため、福音を伝えるための土台がある程度整っていた。一方で偶像礼拝や異教文化が入り混じる複雑な都市でもあった。しかし、むしろこうした「多文化都市」という特性こそが、福音がユダヤ人信者を超えてギリシア人にまで広がるのに好都合な栄養分となった。張ダビデ牧師は、この点を「神が教会を内向きに閉ざしておかず、福音が自然に行き来する環境を用いられた」と解釈する。 こうしてアンティオキアで福音が盛んに伝えられると、エルサレム教会はその知らせを聞き、バルナバを派遣する(使徒11:22)。これは「教会間の協力」の典型的事例である。エルサレム教会としては、新たな動きが起こる場を検証し指導する必要を感じたであろうが、張ダビデ牧師によれば、ここでは「統制」ではなく「協力」の思いが重要だったという。実際、バルナバはアンティオキアに到着すると、そこで起こっている神の恵みを見て喜び(使徒11:23)、「堅い決心をもって主にとどまっていなさい」と励ましている。自分がリーダーとしてすべてを主導するというより、すでに起こっている恵みのわざを認め、信徒たちを奮い立たせることに力点を置いたのである。 さらにバルナバは、一歩進んでサウロ(パウロ)を迎えにダマスコへ赴く(使徒11:25-26)。そしてバルナバとサウロは約1年にわたりアンティオキアで共に働き、多くの人々を教え導く。張ダビデ牧師はこの場面を「新たな指導者共同体の胎動」と解釈する。かつてのエルサレム教会は十二使徒を中心としていたが、アンティオキア教会はバルナバとサウロをはじめ、多様な異邦出身のリーダーが共に立てられる。この過程を通じて、初代教会は本格的に「世界宣教」へ踏み出すことのできる体制を整えるに至る。張ダビデ牧師は、特にバルナバが自身の主導権に固執せず、将来より大きな働きを担うであろうパウロという人物を立てる姿勢に、教会が学ぶべき姿があると勧める。これは結局、教会が築かれる中で表れる「相互に仕え合う協働」の代表的モデルであるといえる。 アンティオキア教会の登場がもつ意義は、まさにここで弟子たちが「キリスト者(クリスチャン)」と呼ばれるようになったことに凝縮される(使徒11:26)。ユダヤ人だけでもギリシア人だけでもない人々が共に集まり、「イエス・キリストに従う者」として新たなアイデンティティを世に示したことを意味する。張ダビデ牧師は、これこそ初代教会が志向するべき本質をはっきり表していると評価する。大勢の「ギリシア人」が含まれた場所で、もはやその共同体が「ユダヤ人の宗教」とは見なされず、「キリストの福音に従う新しい民」というアイデンティティを確立したのだ。 続く使徒の働き11:27-30には、預言者アガボが現れて、やがて大きな飢饉が来ることを預告し、その預告に基づいてアンティオキア教会がエルサレムの兄弟たちのために救援金を集める場面が描かれる。張ダビデ牧師はここで「初代教会における預言者的働きの実際的機能」と「教会間の相互扶助の重要性」の両面を発見する。アガボが告げた預言は単なる霊的体験にとどまらず、共同体が具体的な行動をとるきっかけを生んだ。これが「預言」と「実践」の健全な結合である。そして飢饉が訪れる前に、あらかじめ献金を準備してエルサレム教会へ送るという場面は、一時は異邦人教会として分類され、葛藤しかねなかったアンティオキア教会が、今やユダヤ人教会と一つの体であることを実質的に示す象徴的な出来事である。 こうした教会間の協力は、ガラテヤ書やコリントの信徒への手紙など、パウロの書簡でも繰り返し取り上げられる。パウロは異邦人教会で集めた献金をエルサレム教会に届けることで、「送る側と受け取る側が一つとなる連帯のしるし」を築こうとした(ローマ15:25-27)。張ダビデ牧師は、これは「教会は一つの体である」という使徒的神学が現実の中で具現化した姿だと見る。もしエルサレム教会が引き続き「律法中心」を堅持して異邦人教会を認めなかったら、このような相互扶助は起こり得なかったであろうし、教会が世界へ拡張していく力も著しく制限されただろう。しかし使徒の働き11章に示されているように、ペテロの幻を通じて異邦人にも救いが及ぶという事実を受け入れ、アンティオキア教会を中心に新たに生まれた共同体が協力の手を差し伸べた結果、福音はローマ帝国内にまで広がっていくことになったのである。 張ダビデ牧師は、このモデルを現代教会こそ注目すべきだと繰り返し力説する。教会の組織が大きくなるほど、異なる文化的・神学的背景をもつ人々が同じ共同体に共存する可能性が高まる。その時、最大の試練は「葛藤」である。そしてその葛藤を解消する鍵は「福音の本質」と「連合への献身」にある。アンティオキア教会が示した連合の実践――すなわちエルサレム教会の物質的ニーズを助け、エルサレム教会もアンティオキア教会に指導者を派遣して教えを提供するという相互作用――は、地理的距離を超えた兄弟愛の具体的手本である。また、アガボのような預言者がもたらした「将来の状況」に教会が知恵をもって備えた点も、霊的洞察と実践が一体となった教会共同体の典型的強みを示している。 結局、張ダビデ牧師は、使徒の働き11章に表れたアンティオキア教会のモデルを「世界宣教の始点であり、教会内部の融合と連合が結実した場面」と総括する。ユダヤ人教会と異邦人教会の間にあった壁が取り払われ、ペテロの幻を通じて「神がすでに清められた者たち」を差別なく受け入れた結果、教会は爆発的成長を遂げる。そしてその成長の実が、「飢饉に備えた救援」と「バルナバとサウロによる世界宣教」へとつながるのである。これによって教会は「自分たちのためだけの集まり」にとどまらず、世へと出て行きつつ、内部では深い連帯を形成できることを示している。 さらにアンティオキアから始まったパウロの第1・第2・第3回伝道旅行がローマ帝国内を駆け巡ることにより、福音はユダヤの地を超え、ギリシア世界や西方へと拡大する本格的な足がかりを得ることとなる。張ダビデ牧師はこれを「教会が担う宣教的使命」の成就過程としてとらえる。単にエルサレムという一つの場所にとどまるのではなく、「地の果てにまでわたしの証人となる」(使徒1:8)と言われたイエスの言葉に従い、教会は絶えず地平を広げていく。アンティオキア教会の事例こそ、その地平拡大の試金石であった。そしてこれは「張ダビデ牧師が力説する福音の地平」という表現とも正確に合致する。福音はある地域や民族、文化圏に閉じ込められるものではなく、最終的にすべての人に開かれた神の恵みだからである。 したがって張ダビデ牧師は、使徒の働き11章を前に「私たちはどのような教会を目指すのか?」と自らに問うよう勧める。あるいは「教会が特定の文化を絶対視したり、神学的伝統を守るという名目で、新しい人々を排除してはいないか」「福音がすでに働いている現場へ踏み込むことを恐れて、教会の内に安住してはいないか」と反省する必要があるということだ。アンティオキア教会が世から「キリスト者」と呼ばれるに至ったのは、彼らが異邦の文化と入り混じりながらもアイデンティティを失わず、むしろキリストの愛と教えを行いによって示したからである。エルサレム教会とも絶えずコミュニケーションと協力関係を保ち、飢饉に備えて救援金を送るなど、実践行為を通して福音を証しした。 こうして使徒の働き11章の最後の部分に描かれるアンティオキア教会の姿は、ユダヤ教伝統に根差したエルサレム教会と、新たに誕生した多文化教会が「一つの体として」協力し合う美しい結末を示している。その実現が可能だったのは、先にペテロが見せた「異邦人差別を打ち破る幻」を教会全体が受け入れたからである。このように教会がまず「偏見と排他性」の壁を崩した時、すぐに広い宣教と効果的な救援、そして霊的成長への道が開かれた。張ダビデ牧師はこれを「福音の本質に従順する教会が得る実り」と評する。人間的な制度や伝統、形式に埋没せず、「聖霊の声に従い、十字架の愛をすべての人に開く」姿勢こそが、教会の歩むべき道だというのである。 実際、初代教会がその後も直面し続けた困難――ユダヤ人とギリシア人との衝突、律法をめぐる議論、教会内の派閥、そして外部からの迫害――を克服できた根本動力は、「神の直接的介入」と「聖霊の主権」だった。使徒の働き11章でエルサレム教会がペテロに対して投げかけた激しい抗議も、ペテロが幻の体験を提示し、聖霊がどう働かれたかを説明したことで、最終的には収まり、むしろ神をほめたたえるに至った。アンティオキア教会がエルサレム教会を支援しようと決定したのも、単に人間的好意ではなく、預言者アガボのメッセージ――すなわち聖霊の導き――を聞いて動いた結果である。すなわち、教会が終始分裂せず「新たな時代」を迎えられた原動力は、このように神がもたらす和解と協力の歴史に対する従順にこそあったのだ。 張ダビデ牧師は、この結論をあらためて強調し、「教会が歴史上、最も大きく成長した時期はいつも『偏見を捨て、福音に基づく連合を成し遂げた時』である」と語る。逆に教会が自分たちの境界線を引いて「私たちだけが正しい」という優越感や、「彼らを排除すべきだ」という閉鎖性を守り続けるときは、内部においても停滞や分裂を経験してきた。「仕切りの壁を打ち壊されたイエス・キリストの十字架」が教会のアイデンティティの根であることを忘れてしまうと、教会はすぐに惰性に陥り、福音の躍動感を失い、教勢拡大や自己保身に執着してしまう。しかし初代教会は、使徒の働き11章の出来事を起点に「一つの体」となり、のちにローマ帝国全域へ福音を伝えるための土台を築いた。その過程で何度か葛藤があったとしても、最終的には「聖霊が導かれる方向」へ立ち返った。 結局、張ダビデ牧師が使徒の働き11章を通して繰り返し喚起するメッセージは、「教会とは福音において一つにされた共同体であり、民族・文化・伝統の障壁を越えなければならない責任がある」ということである。ユダヤ人中心教会と異邦人教会は当初こそ大きな壁を感じていたが、神のご計画を理解するやいなや「神は異邦人にもいのちに至る悔い改めをお与えになったのだ」と共に喜んだ。またアンティオキア教会はその喜びを自発的な救援へと結びつけ、エルサレムの兄弟姉妹を助ける姿を通して結束を証明した。この使徒の働き11章の流れこそが、教会が最終的に目指すべき「普遍的宣教共同体」を先取りして見せているのである。 今日の教会がこの精神を継承するには、「福音の地平を広げる」決断が必要だ。教会内部にいまだ残る「排他的教理」や「文化的偏見」が福音を狭めてしまってはいないか、新しい信徒や異なる民族・言語圏の信徒を十分に歓待しているかどうかを振り返らなくてはならない。またすでに宣教地で働いている兄弟姉妹を支援し、その地から学ぼうとする姿勢が求められる。エルサレム教会のように「派遣」の義務を果たしつつ、アンティオキア教会のように「互いに仕え助け合う」具体的実践を結びつける時、教会はさらに成熟するであろう。張ダビデ牧師は、これこそ「十字架を中心に据えた宣教」であり、使徒の働き11章が提示する教会の原型(原形)に最も近い姿だと結論づけている。 要するに、使徒の働き11章は大きく三つの流れを通して、初代教会がいかにして「世界宣教の土台」を築いたかを明らかにしている。第一に、ユダヤ人中心教会と異邦人教会の葛藤は「選民意識」と「律法的伝統」が福音と衝突する様子を具体的に見せる。第二に、ペテロが経験した幻とコルネリオ事件は、宣教が「神の主権による自由さ」の上にあり、教会はその事実に従順すべきことを示す。第三に、アンティオキア教会の誕生と預言者アガボの活動、そしてエルサレム教会との協力は、「実践的連合」が教会発展の核心的原動力であることを証明する。そしてこの全てのストーリーの中心軸には、「仕切りの壁を打ち壊されたイエス・キリストの十字架」と「神の直接的介入」が据えられている。 張ダビデ牧師はこれを総括し、「初代教会が経験したあらゆる葛藤と和解の過程は、過去のある時代だけに限定された出来事ではなく、現代の私たち教会が常に読み返すべき指針となる」と結論付ける。実際、地域教会の中でも、教派や伝統、神学的スペクトラムの違いによって葛藤が生じることがあるし、海外宣教地でも文化的障壁や偏見に直面することが多い。こうした状況に立たされた時にこそ、私たちが思い起こすべきは「神はすでにその場所で働いておられ、教会はその招きにあずかるよう招待されている」という事実である。そしてこの招きに応えるためには、「人間の先入観を捨て、聖霊の声にへりくだって耳を傾ける態度」が不可欠なのだ。 最終的に、使徒の働き11章は「教会がどこから来て、何のために存在し、どこへ向かうのか」という問いに対する明快な答えを提示している。教会はユダヤ人と異邦人を分け隔てる壁を打ち壊し、神の子として召されたすべての人を連合させる共同体である。その連合は単なる頭の中の神学概念ではなく、互いに助け合い仕え合う献金や派遣、霊的交わりによって裏付けられなければならない。そうしてこそ教会は日々新たにされ、福音の地平を果てしなく拡張していくことができる。張ダビデ牧師が「福音の地平」という表現を用いて促そうとしているのはまさにこの点――「教会は自分自身を越えて、世を受け止め、神の御国へと絶えず前進すべきだ」ということである。 このすべての文脈をたどると、使徒の働き11章は、かつて1世紀の教会史としての記録でありながら、同時に21世紀の教会が直面する宣教的課題に対する最も現実的な解答を内包していることがわかる。教会が文化的・宗教的・人種的偏見を乗り越えて一つとなり、聖霊の導きに従って全世界へ福音を伝え、連合した共同体として相互扶助と協力を惜しまない時、福音は再び驚くべき実を結ぶに違いない。そしてその道をすでに初代教会が通ってきたという事実を忘れないならば、私たちはどのような葛藤や問題に直面しようとも、「十字架が私たちの壁を打ち壊し、聖霊が私たちを一つにされる」という信仰をもって進むことができるのである。これこそが張ダビデ牧師が使徒の働き11章を通じて読者に伝えたい核心メッセージであり、現代の教会が握るべき指針でもある。

高尚な知識 – 張ダビデ牧師

1. キリストを知る知識の高尚さパウロがピリピ書で伝えるメッセージは、どのような知識もイエス・キリストを知る知識と比べることはできない、という点をはっきりと示しています。世の中には数え切れないほどの知識が存在します。哲学、科学、文学など、私たちが接することのできるあらゆる学問や情報の総体を思い浮かべるだけでも、この地球の片隅に収まるにはあまりにも膨大であることを痛感します。「Knowledge is power(知識は力なり)」という西洋の古い格言があるように、知識は確かに力となり得ます。ですが、パウロが語る最も卓越し、高尚な知識とは、「主を知る知識、すなわち福音」です。これは単なる知性や学問的な悟りでは説明しきれない、霊的な知識であり、神が与えてくださる真理の光によるものです。 張ダビデ牧師は、このパウロの告白を深く黙想しながら、キリストを知る知識がなぜ高尚なのかを何度も強調してきました。それによれば、この知識が高尚だというのは、すべての世俗的価値や学問的達成、知的好奇心の充足をはるかに超えて、永遠の命と結びついている点に起因するといいます。世の知識は、人がこの地上を生きる間には役に立ち、時には名誉や財産を得る手段になるかもしれません。しかし世の知識は死を超えることはできません。それに対して、キリストを知る知識は、罪と死の権勢に打ち勝ち、復活にあずかる力を内包しています。 パウロはピリピの信徒たちに手紙を書く際、世間的な基準でも相当な背景と名誉を所有していたことを説明します。彼はベニヤミン族の出身で、生後八日目に割礼を受けた正統派のユダヤ人であり、律法的な義を守ろうとする情熱に関しては大いなる努力を払った、と述べます。その中でパウロが使う表現は「肉を誇りとするに足りる」という言い方で、これは世俗的にも外面的にも見て、パウロが当時の基準でかなり誇れる要素を備えた人物であったことを示唆しています。 張ダビデ牧師は、パウロが列挙するこれらの業績や背景が、当時のユダヤ人社会の文脈においてどれほど称賛に値したかを具体的に解説します。ベニヤミン族は戦争において勇猛さを誇る部族であり、「ヘブライ人の中のヘブライ人」という称号は、純粋な血統と律法的伝統をしっかり守り抜いた者に与えられる最高の呼び名の一つでした。律法への熱心さにおいては、パリサイ派として活動していましたが、パリサイ派は当時約6000人ほどだったといわれる、特別に区別された集団に属していたのです。しかしパウロは、そうした外的背景を持っていたにもかかわらず、「私が得たものはキリストだ」と大胆に告白します。そして「キリストを得るためにはすべてのものを排泄物のようにみなす」と宣言するのです。 当時、パウロのこの告白は、教会の内外で大きな話題になりました。イエス・キリストを信じるという理由で、パウロが本来得ていた地位や名誉、そして享受できたはずの宗教的・社会的特権をすべて捨て去った姿は、人々には見慣れず、理解しがたいものでした。それにもかかわらず、パウロはまったく後悔することなく、より高次の知識を得るために進んですべてを損失と見なしたと弁証します。それは、キリストを知る知識がどんなものと比べても計り知れないほど高尚だからです。 張ダビデ牧師はここで一歩進んで、実際の教会史が証言する事例をよく引用します。西洋列強がまだ知らなかった時代、遠い東方の国々—アフリカ大陸、アジア大陸、あるいは南太平洋の島々—へ福音を伝えに行った宣教師たちの事例です。彼らは西洋で高い教育を受けたり、富裕な環境であったり、安定した暮らしを享受できたのに、すべてを捨てて船に乗り、危険な海や未知の文化圏を渡りました。なぜそこまでしたのでしょうか。それは、彼らがキリストのうちに見いだした驚くべき知識—福音の真理—が、すべてを捨てても惜しくない価値があると信じたからでした。 このようにイエス・キリストに人格的に出会い、その尊さを完全に悟った人々は、「捨てられるから捨てる」のではなく、「より大きなものを得たゆえに捨てる」という逆説を体験します。張ダビデ牧師は、「銀や金は私にはないが、私にあるものをあなたにあげよう」と宣言したペテロとヨハネの告白に言及し、私たちにも「キリスト」という最も高尚で永遠なる贈り物が与えられていると力説します。私たちが真に福音を握るとき、世的な視線や評価に振り回されることなく、自由にすべてを手放す力を得るのです。 では、パウロが語る「キリストを知る知識」とは何であり、それがなぜ最高の価値と呼ばれるのでしょうか。パウロはキリストが何者であるかを悟る前は、律法的な義を最高の価値と考え、自分を非の打ちどころがない者とさえ呼べるほどでした。しかし主と出会った後は、それまでのすべての律法的な労苦や外的背景がまったく無意味に感じられたと告白します。なぜなら律法の義は道徳と倫理の次元を越えられませんが、福音の義は神から与えられる義であり、信仰を通して私たちを義とみなしてくださる神の愛と恵みは、律法的義をはるかに凌ぐ、永遠に続く大きなものだからです。 張ダビデ牧師は、「私はその中に見いだされるためである」というピリピ書3章9節の言葉こそ、現代の信仰者たちの基本的態度となるべきだと繰り返し説いています。自分が神を見いだすのではなく、神が自分を見いだしてくださるという恵みの受動態の中で生きることが福音的信仰なのです。私たちは自力で義を積んだり業績を誇ったりする存在ではなく、ただキリストのうちにだけ見いだされる存在です。この視点は私たちの生き方を根本からへりくだらせ、そして喜びへと導きます。 結局、パウロにとってこの「キリストを知る知識」を得ることが人生最大の目標であり、それを得たがゆえに、もはや世俗的に有益だったものを未練なく捨てることができたと告白しています。張ダビデ牧師も、この点をさまざまな説教や講演で強調し、私たちもパウロの告白にともに参加すべきだと勧めています。「たとえ全世界を得ても、自分の命を失ったら何の益があるのか」というイエスの言葉(マタイ16:26)を引用しつつ、まさにキリストと福音こそが、私たちに真のいのちと喜びをもたらす唯一の道であると確証するのです。 こうした背景すべてを総合すると、キリストを知る知識の高尚さは、私たちの価値体系を根こそぎ変えてしまうことがわかります。人間的基準で誇っていたものが無意味になり、むしろ永遠の神の御国と主の御臨在の中にとどまることが真の満足であると悟るようになるのです。結局、これはパウロが体験し、そして張ダビデ牧師が説教と宣教を通して繰り返し思い起こさせてきた福音の核心です。そしてこの福音こそ、現代を生きる私たちにとっても最大の希望と慰め、そして生きる目的を与えてくれるものなのです。 2.パウロ使徒の生涯、律法の義、そして張ダビデ牧師による現代的適用 ピリピ書3章4節以下を詳しく見ると、パウロがどのような人物であり、どのような人生の軌跡を描いてきたのかが鮮明になります。パウロは自分が人間的にも、肉体的にも、世俗的にも誇るに足るものを多く持っていたことを隠しません。彼は「私が肉を信頼するに足りる」と言って、他の誰よりもすぐれた品性や業績を誇ってもふさわしい存在であることを示唆しています。 当時のユダヤ社会で、生まれて八日目に割礼を受けたことは、正統なユダヤ人であることを示す代表的な象徴でした。それだけでなく、ベニヤミン族の出自も大変特別でした。ベニヤミン族は“狼”という象徴が付くほど勇猛に戦い、粘り強い戦闘力を誇る部族でした。サウル王もこの部族の出身でした。パウロの本来の名前だった「サウル(Saul)」を考えると、彼の人生に宿っていた伝統的背景がどれほど華やかであったか想像できます。またパウロは「ヘブライ人の中のヘブライ人」として、言語と伝統、文化のどれもなおざりにせず、正統性を守り抜いた人物でした。 張ダビデ牧師は、パウロのこうした背景を現代に置き換えて説明することがあります。例えば、現代社会で最高の名門大学を卒業し、著名な師匠に師事し、数々の専門資格を持ち、経済的にも不足がない人を想像してみましょう。さらにその人が厳格で伝統的な信仰生活を営む宗教指導者であれば、それだけでも十分に人々の称賛を受けるに値するでしょう。まさにパウロはそうした地位にあったのです。彼の師がガマリエルであったということは、現代でいえば誰もが羨む名声ある師匠の下で学んだということと同じ意味合いを持ちます。 それにもかかわらず、パウロは自分の過去の業績と背景を「排泄物」とみなしたと断言します。ピリピ書3章7-8節でパウロは「キリストのためならばすべてを損と思うばかりか、キリスト・イエスを知る知識が最も高尚であるので、すべてを捨てた」と告白します。これは、律法の義で自分を武装していたパウロが、信仰の義を知った後では、それ以前のすべての基準が無意味に感じられたことを示しています。 律法の義と福音の義は本質的に次元が異なります。律法的義とは、個人がどれだけ律法を守ったか、道徳的・倫理的基準を満たしたかで評価されます。その過程で完全無欠であろうとする試みを繰り返しても、人間は根本的に罪性をもった存在であるため、完璧になることはできません。むしろ自分の罪を発見して苦しむようになります。しかし福音の義は「自分の功績」ではなく、「神の御子イエス・キリストの恵みと愛を通して」与えられるものです。 張ダビデ牧師は、この義の転換を「次元移動」にたとえます。律法的義の次元から福音の義の次元へ移ることは、単にある規則の集団から別の規則の集団へ乗り換える程度の話ではありません。人間の自然的な力では決して到達できない天の次元、すなわち恵みの世界へ招かれるのです。だからこそパウロは「私はその中に見いだされるためである(ピリピ3:9)」と語ることができました。「見いだす」という能動態ではなく、「見いだされるため」という受動態を用いたのは、結局、自分で登ったのではなく主が私を捕まえてくださったのだ、ということを告白するためです。 一方パウロは、律法を行うことによって義とされようと熱心に励んだだけでなく、当時イエス・キリストに従う人々を迫害することにも先頭に立っていました。それを、ユダヤの律法伝統を守る正しい熱心だと信じていたのです。自分では正しいと信じることに全身全霊を注いでいた彼が、ダマスコ途上で復活のイエスに直接出会ったことによって、人生は180度変わりました。ピリピ書3章12節の「私はキリスト・イエスに捕らえられたそのものを得ようとして追い求めている」という言葉は、その衝撃的な出会いの後にパウロが歩むことになった険しい使徒の道のりを象徴しています。 張ダビデ牧師は、パウロのこうした劇的な転換点を「決定的発見」と呼ぶことがあります。かつては律法の尺度とユダヤの伝統を絶対視し、異邦人を蔑視して教会を破壊してもよいとさえ思っていたのに、イエスと出会ってからは、旧約の律法と預言がキリストにおいて成就したことを悟りました。そして律法的義ではなく福音の義にすがる道を選んだのです。同時に、自分が迫害していた教会をむしろ建て上げ、福音を伝える者になりました。このようにパウロの生涯は、まるで完璧な逆転ドラマのように見えます。 しかしその反転の裏には数えきれない苦難が伴いました。彼が選んだ伝道の道は、打たれ、牢に入れられ、石打ちに遭い、死の危機をかいくぐる道でした。パウロは第2次、第3次伝道旅行を経てローマ帝国全域に福音を伝えるために生涯を捧げました。その困難の中でもピリピ教会やエペソ教会、コリント教会など、数々の共同体を開拓し、手紙によって彼らを教え、勧め、励ましてきました。 張ダビデ牧師は、パウロが耐えたこの苦難が単なる昔話ではなく、今日においても福音のために努力する人々に大きな示唆を与えると強調します。福音を正しく悟ろうとする人は、律法的義で自分を誇ろうとするよりむしろ、へりくだって恵みに頼り、神に用いられようとします。そして福音を伝えるうちに、世の中から、あるいは周囲の人々から誤解や迫害を受けることもあります。しかしパウロの事例からわかるように、「すでに得たというわけではないが、キリスト・イエスに捕らえられたそのものを得ようとして走っている」と告白することで、私たちの使命が明確になり、最終的には神が準備してくださった報いにあずかることができるのです。 結局、パウロは律法によっては非の打ちどころがなかった人でしたが、キリストの道を見いだした後は、すべてを損と思い、福音のために奴隷のように献身しました。この生き方こそがピリピ書全体を貫くテーマであり、張ダビデ牧師が今日、多くの教会と信徒たちに絶えず説いてきたメッセージでもあります。律法的義の枠に閉じこもり、一歩先も見通せずに生きる人々に、真の義は「信仰によって神から与えられる義」であると伝えることこそ、福音の使役者たちの使命だというのです。 3.召しの賞を目指して進む信仰の旅と張ダビデ牧師の勧め ピリピ書3章10節でパウロは、復活の力と苦難の交わりを語りながら、最終的には主の復活にあずかりたいという願いを明らかにしています。「キリストとその復活の力、そしてその苦難の交わりを知るために」というこの表現は、パウロの信仰の真髄を示すものです。彼の目標は、ただ律法の基準を満たす生き方ではありませんでした。彼はキリストの死と復活を倣い、苦難の中にも復活の栄光にあずかろうとしていたのです。 張ダビデ牧師はこの箇所を説教する際、「苦難の道は決して甘美なものではないが、復活の力が約束されている」という点をよく述べます。キリストの道を歩むことは、時に世の基準から見れば失敗に見えたり、損をしているように見えたり、痛みを伴う瞬間を含みます。しかしその道の果てにあるのは、永遠のいのちの冠です。パウロはコリント第一の手紙9章24-27節で競技場を走る者のたとえを用いて説明します。競技場で走る者たちが賞を得るために自らを節制し、最善を尽くすように、キリスト者もいのちの冠を見据えて走る存在だというのです。 ピリピ書3章12-14節でパウロはさらに具体的に語ります。「私はすでに得たとも、すでに完全にされたとも言いません。しかしキリスト・イエスに捕らえられたそのものを得ようとして追い求めています。」そして続けて「私は自分がすでに捕らえたとは思っていません。後ろのものを忘れ、前のものに手を伸ばして、標(ゴール)を目指して走っている」と告白します。これは、パウロが現在の信仰状態に安住したり、過去の達成にとらわれたりせず、これから来る栄光をめざして常に前進していることを示しています。 張ダビデ牧師は、まさにこの点で教会と信徒たちに最も大切な課題が与えられていると言います。過去の栄光や傷にとらわれると、未来へ進む原動力を失ってしまいます。教会が外面的に成長したからといって、その場に満足してとどまってはいけません。同様に、個人の信仰がある程度固まったからといって、それ以上成長しようとしなければ、信仰は停滞してしまいます。「後ろのものを忘れよう」というパウロの決断は、まさにそうした安住や停滞を克服するための信仰的決意です。 ここでの標(目指すゴール)、すなわち目標とは「神が上から召してくださる召しの賞」です。この賞は世の称賛や名誉、物質的報酬ではありません。ただキリストのうちにあって私たちに与えられる、永遠のいのちと栄光のことを指しています。ヤコブ書1章12節は「試練を耐え忍ぶ者は幸いです…いのちの冠を得るのです」と語ります。またヨハネの黙示録2章10節で主はスミルナ教会に「死に至るまで忠実でありなさい。そうすればいのちの冠を与えよう」と約束されました。 パウロは、この賞を目指して走りながら、一方で他者に仕える姿勢を取りました。「私は自由であるが、より多くの人を得るために自ら進んで奴隷となった」(コリント第一9:19)という言葉のように、福音のために個人的な自由や権利を制限することをもいといませんでした。これは決して容易い選択ではありませんが、神の御国を拡大するためには、自発的に犠牲と献身を受け入れる姿勢が必要だというわけです。 張ダビデ牧師は、こうしたパウロの「二重性」を「霊的に自由を持ちながら、愛のために奴隷となる逆説的な生き方」と表現します。そしてこの逆説こそが、キリスト者なら誰しも抱えるべき召しだと強調します。私たちはキリストに捕らえられた者である一方で、キリストを捕らえようとして熱心に追い求める競技者でもあります。すでに恵みによって救われている存在でありながら、その恵みにふさわしく生きるために自らを否定し、十字架を背負う道を歩み続けるのです。 パウロがピリピ教会に送ったこの手紙で「標を目指して走る」と言ったのは、教会内部の争いや不和で揺れている信徒たちの視線を、再び永遠の目標に向けさせるためでした。教会にはさまざまな考え方や段階、信仰の深さが共存して当然です。パウロは「もし何か違う考えがあっても、神はそれすら明らかにしてくださる」と言い、皆が同じ境地にいるわけではないことを認めます。それでも最終的には同じ賞を目指して走るのだということを忘れないようにと促します。 張ダビデ牧師は、ここで「ただ私たちは、どこまで来ているにせよ、そこに応じて進むのだ」というパウロの言葉を、教会共同体における重要な実践原理として提示します。信仰の成熟度は人によって異なります。けれど大事なのは、どの段階にあろうともその場に安住せず、一歩ずつさらに進もうとする態度です。まだ信仰がない状態なら、信仰を持とうと努めます。信仰が芽生えてきた段階なら、それを実際の生活に適用し、成長していかなければなりません。とにかく「すでに完全だと思わない」で、プロセスを継続していくことが重要なのです。 このメッセージは、現代の教会にもそのまま当てはまります。多くの教会が歴史の中で、隆盛と衰退、争いと和解を繰り返してきましたが、結局私たちが見つめるべき最終的な基準は「キリスト・イエスにあって神が上から召してくださる召しの賞」です。この基準を見失うと、教会は人間的な争いや自己誇示に陥りやすく、福音の本質を失いやすくなってしまいます。 結局パウロが「走っている(私は追い求めている)」と言ったように、私たちも「走る信仰」を回復しなければなりません。これこそが張ダビデ牧師が現代の教会に向けて繰り返し強調している使命です。キリスト者としてすでに多くを成し遂げたと思って安心した瞬間、実際には後退しているかもしれないことを認識すべきなのです。信仰生活が「習慣」や「伝統」に縛られるようになると、もはや福音の躍動が表れなくなります。福音は現在進行形の力です。パウロは獄中にあっても、福音を語る手紙を綴り続け、その影響力は衰えませんでした。 現代の私たちも、教会の中でも個人の信仰の歩みでも、さまざまな難局に直面することがあります。事業の失敗や人間関係の悩み、あるいは身体の病など、さまざまな現実的問題に直面するとき、なぜこんな道を歩まなければならないのかと疑問に思うこともあるでしょう。しかしパウロの人生を振り返ると、彼はローマ市民権を持ちながら迫害を受け、ユダヤの宗教指導者出身でありながら同胞に排斥され、伝道旅行中にも度重なる事故や裏切り、危険にさらされました。それでも、「さらに大きな賞」を見据えながら生きることに後悔はありませんでした。 これこそが「召しの賞を目指して進む信仰の旅」です。張ダビデ牧師はこの旅を語るとき、私たちにも各々が受けた召しがあると言います。召しは牧師や宣教師だけのものではなく、すべてのキリスト者が自分の置かれた場で福音の光を放つ生き方のことです。ある人は家庭で、ある人は職場で、またある人は教会での奉仕や社会奉仕を通して、それぞれ与えられた召しを全うすることができます。それが各自の「走るレースコース」です。そのコースを走っていると疲れる時もあれば、つまずくこともありますが、大切なのは「最後まで走り抜く者に与えられるいのちの冠」なのです。 結局ピリピ書3章は、パウロの個人的告白であると同時に、すべての時代と地域の教会に通用する福音的勧めでもあります。張ダビデ牧師は、この御言葉こそが現代において鈍くなってしまった信仰を再び呼び覚ます霊的触媒になり得ると強調します。「すでに得たと考えてはいない」というパウロの言葉のように、私たちの信仰も常に学びと成長の過程にあることを認めなければならないのです。そして「後ろのものを忘れ、前のものに手を伸ばし」続けるならば、神が用意しておられる驚くべき恵みと報いを必ず経験することになるのです。 これがパウロ使徒の真理に対する証言であり、同時に張ダビデ牧師が現代の教会に向けて語り続けてきたメッセージです。どんな人であってもこれほど説き明かすことは難しく、どの知識人でもこうした説明は容易ではない福音の深遠さを、パウロは自らの人生をもって証明しました。その生き様を受け継いで、今日の教会もまた「主が私たちを見いだされる時まで、私たちが主を捕まえようと追い求める競技者」として生き抜くべきです。そうするなら、どんなに遠い道を歩んでも疲れず、福音という光によって全世界を明るく照らすことができるでしょう。 張ダビデ牧師は、この原則をけっして忘れないようにと重ねて思い起こさせます。私たちの内に真の原動力を与えてくださる方はキリスト・イエスであり、私たちがつかむべき目標は「上からの召しの賞」です。過去の失敗や傷にとどまらず、またすでに得た成功や特権に自足することもやめましょう。教会が争いや誤解、対立に陥ることがあっても、この視点を見失わず「一つの思いで、一つの道を目指す」ならば、必ずキリストのうちに見いだされる栄光の日が訪れると確信するのです。これがパウロが歩んだ道であり、それに倣ってきた張ダビデ牧師の切なる勧めでもあります。

心の割礼と高慢――張ダビデ牧師

1.罪と裁きに対する公平性:異邦人とユダヤ人、そして今日の教会 ローマ書2章は、「異邦人に対する神の怒り」を取り上げたローマ書1章に続き、「ユダヤ人に対する神の怒り」を本格的に扱う章です。パウロは1章で異邦世界の罪悪を告発しました。異邦人は神を心に留めることを嫌がり、淫行や不義、貪欲や偶像礼拝に満ちた生活を送り、その結果、神の怒りが彼らの上に臨むと宣言したのです。ところが2章に入ると、突然その矢がユダヤ人に向かいます。彼らは自分たちを「選民」と自負し、異邦人が受ける神の裁きは自分たちには関係ないと考えていました。ところがパウロは「だからこそ、ほかの人を裁く人よ、だれであろうとあなたには弁解の余地がありません。あなたは他人を裁くことで自分自身を罪に定めているのです。裁くあなたが同じことを行っているからです」(ローマ2:1)と宣言します。つまり、ユダヤ人だからといって例外にはならず、「他人を裁きながら、自分も同じ罪を犯している者」は弁解できないまま裁きを受けることになる、というのです。 張ダビデ牧師は、この箇所から「霊的な高慢や、自分は正しいとする態度はユダヤ人だけの問題ではなく、今日、教会に通いイエス・キリストを信じると告白している私たちにも十分当てはまる」と強調します。私たちは福音によって救われたと告白し、しばしば教会の内外にいる人々を教えたり、批判したりすることがあります。しかし、内面をよく省みると、彼ら以上に罪がないとは言いきれません。イエス様も山上の説教(マタイ7:1-2)で「人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないだろう。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれるからである」とおっしゃいました。結局のところ、罪と裁きにおいてはユダヤ人であれ異邦人であれ、みな同じ基準のもとに置かれており、裁きは神の義によって行われます。パウロの主張は「神はえこひいきなどなさらない。血統や宗教制度、宗教的熱心さだけで罪の責任が免除されることは決してない」ということです。 この文脈の中でパウロは、ユダヤ人たちが誇りの根拠としていた「律法」と「割礼」に鋭く切り込みます。ユダヤ人は自分たちに律法が与えられ、肉体的な割礼を通して神の契約の共同体に属しているのだと信じていたため、自分たちは異邦人とは区別された生活を送っていると誇っていました。しかしパウロは「律法を聞く者が神に義とされるのではなく、律法を行う者が義とされるのです」(ローマ2:13)と宣言し、単に律法を所有していることや形式的に守っているだけでは、義と認められないとはっきり言います。「心の割礼」がなく、「悔い改め」が伴わない宗教的な誇りは、かえって罪と裁きをより深刻にするだけです。そこで「肉に割礼を受けていても律法を守らないなら、それは無割礼と同じことであり、逆に無割礼の者でも律法の精神を守るなら、割礼を受けている者より優れている」と強調します(ローマ2:25-27)。 張ダビデ牧師は、この論点を今日の教会の現実にも当てはめます。教会に通い、洗礼を受け、礼拝を捧げ、何らかの役職を担い、ときには献身や奉仕に熱心であったとしても、本当に大切な御言葉の本質――「愛、慈しみ、赦し、聖なる生き方」――を徹底して自分の生活に実行しないならば、それらの行為は決して神の前で誇りにはならない、というのです。単に「私は礼拝を欠かさない」「私は十分の一献金をしている」「私は教会の中で熱心に奉仕している」といった外面的な信仰が、内面までも義であることの証拠とはならないのです。人からは称賛されるかもしれませんが、神は人の外見や形式によっては判断なさいません。「神は人を外見で判断なさらない」(ローマ2:11)というパウロの宣言は、過去のユダヤ人だけではなく、今を生きるすべての信仰者への警告として胸を打ちます。 さらにパウロは、異邦人であっても「良心」に従って善を行おうと努める者であれば、実際に律法がなくても自ら良心の律法を守ることができると言います(ローマ2:14-15)。人間の良心は、創造の時から内側に与えられている「本性的な律法」であり、それによって罪を見分けることができるのです。つまり「私はキリスト教の信仰を持っていなかったので知らなかった」という言い訳は通用しないという意味です。すべての人は、心のうちに善悪を分別する本能を持ち、それを破れば「自らを告発する思い」と「内的な罪の意識」を経験します。要するに、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、そして現代の教会に通う者であろうとそうでない者であろうと、誰もが神の公平な裁きのもとに立たされているのです。張ダビデ牧師は、ここで「福音とは私たちが罪人であることを悟らせ、悔い改めへと招き、ついには恵みと赦しのうちに生きる力だ」と力説します。しかし、その恵みが「罪を犯し続けても大丈夫」という放縦や自己正当化につながってしまってはなりません。むしろ恵みは、「自分の罪を悔い改め、善へと一歩ずつ進むように促す原動力」となるべきなのです。 結局、ローマ書2章が示す核心は次のように要約できます。第一に、異邦人もユダヤ人も神の前に例外はなく、第二に、律法そのものや宗教的儀式だけで義とされるのではなく、実際の生活における従順が求められ、第三に、そのすべての判断は神の絶対的な公義のもとで行われるということです。このメッセージを適用するにあたり、今日の教会にいる私たち自身がまず振り返る必要があります。張ダビデ牧師も「だから立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(第一コリント10:12)の御言葉を根拠に、常に自分を省みて悔い改め、へりくだって神だけを頼りにすべきだと繰り返し強調しています。 2.霊的高慢と悔い改めない頑固さ:信じる者により厳しく臨む警告 パウロはローマ書2章で「他人を裁く人よ」と手厳しく非難します(ローマ2:1)。ユダヤ人には「神の選民」という認識が極めて強くありました。彼らはアブラハムの子孫であるゆえに、たとえ罪を犯しても究極的には救われるだろうという漠然とした確信を抱いていたのです。彼らが頼りとしていた外典(偽典)の一つ「ソロモンの知恵」には、「神は恵み深く忍耐強く、憐れみに富んでおられ、その子らを最終的には救われる」というような趣旨の記述があります。ユダヤ人たちはこの言葉を自分たちに都合よく解釈し、「自分たちはどんな罪を犯しても結局は救われる」といった“霊的特権意識”を形成していったのです。 こうした病理的な現象は、今日の教会の中でも十分に見られることかもしれません。張ダビデ牧師はこれを指して「霊的な高慢と自己確信が行き過ぎると、やがては悔い改めない頑固さに陥る危険がある」と警告します。そのような状態に陥ると、自分の生活や心の中に入り込む罪を痛烈に認めるよりも、「自分はすでに救われているから大丈夫だ」とか「それでも私は教会で熱心に活動している」と自分を正当化しがちになります。イエス様はこの態度を、ルカ18章の「パリサイ人と徴税人」のたとえを通して明確に指摘されました。そのたとえでパリサイ人は「神さま、私は異邦人や罪人のようでなく、断食や十分の一献金もしています」と誇ります。しかしイエス様は「むしろ徴税人のほうが義と認められて帰った」と語り、パリサイ人の“自己義”を厳しく責められました。パリサイ人には敬虔の“形式”はありましたが、その内側に本質的な愛とへりくだりが欠けていたのです。徴税人のように自らを罪人だと告白し、ただ神の憐れみにすがる「霊的な貧しさ」こそが、神に受け入れられる礼拝の姿勢であり、悔い改める心といえます。 「霊的高慢」の極端な現れは、「頑固さ」と「悔い改めない心」として現れます(ローマ2:5)。パウロは、この問題がユダヤ人の中に蔓延していたと指摘します。彼らは宗教的に多くの特権と知識を持っていましたが、内面に深く根を張る罪性を認めようとせず、他人を裁くことにだけ長けていました。その一方で、神の寛容と慈しみを誤用し、「もっと罪を犯しても赦される」と安易に考えてしまったのです。パウロはそれを「神の慈愛と寛容と長い忍耐の富を軽んじる」(ローマ2:4)と表現します。神の与えてくださる恵みと憐れみは確かに存在しますが、それは罪を放置して罪に安住させるためのものではありません。むしろ罪から立ち返るチャンスを与えるための、神の長い忍耐であると悟らねばならないのです。 張ダビデ牧師は、教会の中にいつでも潜みやすいこのような自己欺瞞的な態度を鋭く指摘します。礼拝や奉仕、献身は外面的に表れる信仰生活の姿ですが、「私はこれだけやっているから大丈夫」という思いが入り込んだ瞬間、霊的高慢に陥りやすくなります。特に現代の教会は組織が大きく体制が整っているため、どこかの部署で熱心に活動しているうちに、自分は正しいと錯覚しがちなのです。 またパウロが言う「悔い改めない頑固さ」(ローマ2:5)は、罪を指摘されてもそれを認めず言い訳する姿となって表れます。たとえば「私がこれをせざるを得なかった理由がある」などと、自分の行為を正当化し始めると、内面的な省察や罪の告白が妨げられてしまいます。あるいは一部の教会員は「それでも自分は他の人よりマシだ」と、相対的な優越感を持ちます。しかし神は人間の隠れたことまで裁かれるお方です(ローマ2:16)。イエス様が「わたしは見る者を見えなくし、見えない者を見えるようにするために来た」(ヨハネ9:39-41)と言われたとき、そばにいたパリサイ人たちは「私たちも盲目だというのか」と反発しました。するとイエス様は「もしあなたたちが盲目であったなら罪はなかっただろう。だが『私たちは見える』と言っている以上、あなたたちの罪は残るのだ」と返されました。つまり、自分の欠点をまったく見ずに「自分は見えている」と思い込んでいる者の罪が、最も深刻だということです。 今日の信仰者たちは、もしかすると神を知らない世の異邦人よりも、罪への恐れが鈍感になっているかもしれません。「神が私の父であり、私はすでにイエスを信じて救われているのだから」という理由で、いざ罪を憎み、悔い改めるよりも、何度つまずいても「大丈夫だろう」と済ませてしまう危険があります。しかしパウロの論点は明白です。「あなたがたの頑固さと悔い改めない心のゆえに、怒りが積み上げられているのだ」(ローマ2:5)。神の限りない愛は紛れもない事実ですが、その愛と憐れみを「罪を繰り返すための盾」にしてしまうことは重大な不敬虔であり、いつかは神の正しい裁きに行き着くことを忘れてはなりません。 張ダビデ牧師は「悔い改めとは、単に罪を告白するだけの行為ではなく、自分の罪性を痛烈に悟り、方向転換することだ」と教えます。言いかえれば、キリストが与えてくださった恵みが「私たちを道徳的に緩ませる免罪符」にならないよう、常に警戒しなければならないということです。「恵みのうちに立ち続けるべきだが、その恵みに安住したり高慢になる瞬間、私たちの信仰は急激に退行する」という点を忘れてはなりません。ローマ書2章が「信じていると言う者たち」を、より深刻に告発している理由はここにあります。福音を持ち、教会を仕え、神を知っていると自負する者には、実はさらに大きな責任が伴います。だからこそ、他人を裁く前にまず自分を顧みて、御言葉どおりに生きようと決断し、聖霊の助けを切に求める必要があるのです。そうしてこそ、真の「信仰の実」を結ぶことができます。 3.心の割礼と真の従順:律法の本質と信仰の内面化 ローマ書2章の最後の部分で、パウロは「表面的なユダヤ人」と「内面的なユダヤ人」とを対比します(ローマ2:28-29)。 「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、肉体における割礼が割礼なのではありません。本当のユダヤ人とは内面上のユダヤ人のことであり、割礼は心にするものです。それは文字ではなく御霊によるのです。その誉れは人からではなく、ただ神から来るのです。」 ここで言う「ユダヤ人」という表現を、今日で言えば「教会員、聖徒、あるいは自ら神を信じる者」と置き換えることができるでしょう。大切なのは、単に目に見える教会籍や洗礼証明、あるいは宗教的儀式ではなく、真に神を畏れ、心で主のみこころに従う者こそが本物の信徒なのだという意味です。 張ダビデ牧師は、この聖句について「信仰の本質は何よりもまず内面の割礼、すなわち心の変化を要請する」と繰り返し語ります。ユダヤ人は契約のしるしとして割礼を受けましたが、それは神の前で霊的な資格を保証する「絶対的証明書」ではありませんでした。むしろその割礼が示す「聖さ、従順、区別された生き方」を日常の生活で実践してこそ、真にユダヤ人として認められるはずでした。同様に、今日の信徒も洗礼や礼拝出席、さまざまな奉仕や献金が信仰の“しるし”であることは確かですが、それ自体が私たちを義とするわけではありません。霊的ないのちは「神の前に本当にひれ伏しているか、まことの愛の実を結んでいるか、従順の歩みをしているか」にかかっているのです。 パウロは先に「神は各人にその行いに応じて報いられる」(ローマ2:6)と宣言しました。もちろんそこには「恵みによる信仰によって得る救い」という新約の核心的な教えが前提されています。しかし、信仰が実際の生活に結び付かず、単なる頭の知識や口先だけにとどまるならば、それは本質的には「死んだ信仰」です(ヤコブ2:17)。ですから真に信じる者は、心に割礼を受けた者として、神のみこころに従い、聖さと愛を追い求めるはずです。「分裂を起こし、不義を追い求める者には憤りと怒りが下る」(ローマ2:8)というパウロの警告は、教会の共同体内にも十分当てはまります。教会の中に派閥や争いが起き、愛と赦しよりも陰口や不和が増していくならば、たとえ礼拝や儀式に参加していても「内面的なユダヤ人」、すなわち心の割礼を受けた者とは言えないでしょう。 張ダビデ牧師は、ここで具体的に「愛の実践と道徳的責任」について繰り返し言及します。イエス・キリストの教えは律法を廃止するのではなく、むしろ律法の精神を完成させるものでした(マタイ5:17)。その核心は「神を愛し、隣人を自分自身のように愛せよ」という戒めです(マタイ22:37-40)。ところがユダヤ人たちは、いけにえの規定や祭日、食物規定などの形式に熱中するあまり、「本当に重んじるべき正義や憐れみ、信仰をないがしろにしてしまった」とイエス様は指摘されました(マタイ23:23)。同じように、現代の教会員も、さまざまな宗教行事やプログラムにだけ熱心で、貧しい隣人を助け、傷ついた人々を慰め、教会内外の疎外された人々を受け入れるといった“具体的な愛”をおろそかにするならば、それは形式だけの敬虔に陥っていたパリサイ人と何ら変わりないと言えるでしょう。 パウロは「異邦人の中にも、良心の律法を守り善を行う人々がいる」(ローマ2:14-15)と言います。であれば、教会の内にいる私たちは、彼らよりもさらに低くなり、誠実に善を実行しようと努めるべきなのは言うまでもありません。しかしもし私たちが「心の律法」を踏みにじり、良心の声を無視して、口先だけの信仰を告白しながら実際には不義を行っているならば、異邦人がかえって私たちを裁くことになる――これがパウロの強い警告なのです(ローマ2:27)。 結局、ローマ書2章から得られる最終的な教訓は「信仰の内面化」です。張ダビデ牧師も「真の変化は心から始まる。目に見える制度や儀式、外面的な熱心だけでは神にほめたたえられない。御霊による礼拝、心から捧げる犠牲、そして御言葉に従って生きようとする姿勢こそが真の割礼である」と説きます。もし心から湧き出る悔い改めと従順、そして愛の実践がないなら、いくら外見上は“信仰者”のように見えても、単なる「表面的なユダヤ人」にすぎません。私たちが本当に求めるべきは「神からの誉れ」(ローマ2:29)であり、それは「正直でへりくだった思いで神の前に立つ者」に与えられる祝福です。 パウロの全体的な論旨は、ユダヤ人にも異邦人にも神が同じ公義の基準で裁かれるという事実に帰結します。宗教的な特権や儀式的な功績が免罪符を与えるわけではありません。私たちは「恵みによる信仰によって」救われますが、その信仰が真の従順と愛として現れるときに初めて「心の割礼」を受けた者となります。張ダビデ牧師もこれを踏まえて「イエス・キリストの福音は永遠のいのちと愛への道だが、その道を心から歩まずに他人を裁いたり、宗教的な形式だけにしがみつくならば、かえってその福音が私たちの罪を暴く裁きの物差しとなり得る」という点を警告します。したがって私たちは日々、自らの魂を顧み、神の前に真実に悔い改め、御言葉に従いたいという決断を新たにする必要があります。これこそがローマ書2章から私たちが受け取るべき重要な要点です。 最後に、パウロが語る「互いに告発し合い、あるいは弁明し合って、その心に刻まれた律法の働きを示すのです」(ローマ2:15)という表現が示すように、すべての人は心の奥底で「自分が本当は何者であるか」を知っています。そして神の前では隠れたこともすべて明らかになります(ローマ2:16)。私たちの宗教活動や業績、教会内での地位にかかわらず、最終的に神は「心の真実」をご覧になるのです。だからこそ「私は本当に心の割礼を受けた者なのか。それとも表面的に割礼を受けたふりをしているだけなのか」という問いは、今日もなお有効です。張ダビデ牧師が強調するように、この問いに正直に向き合うとき、私たちは初めて福音の真の力の中へ入り、神との深い交わりを得られます。そしてその結果として、人生のあらゆる場面で「善い実」を結ぶことができるのです。 以上、ローマ書2章を、張ダビデ牧師の教えをキーワードとして三つの小見出しに分けて考察しました。第一に、ユダヤ人も異邦人も、罪と裁きにおいて例外ではないことを確認し、第二に、霊的高慢と悔い改めない頑固さこそが、信じる者にいっそう厳しい裁きをもたらすことを学び、第三に、心の割礼によって真の従順と愛を行う生活こそが信仰の本質であると悟りました。私たちの実際の生活において最も重要なのは、「神の前に自分をありのままさらけ出し、主の御言葉に従い、愛の実を結ぶこと」です。パウロが語る「神は各人に、その行いに応じて報いをされる」(ローマ2:6)という宣言の前に、ただへりくだって悔い改め、主の恵みによって新しくされる道だけが開かれています。そしてこの道こそ、イエス・キリストの十字架と復活によって備えられた福音の道であり、張ダビデ牧師が常に私たちに勧める「真理の道」でもあるのです。

受肉――張ダビデ

1. 四福音書の象徴とイエス・キリストの多面的アイデンティティ 張ダビデ牧師が語る福音のメッセージは、四福音書が示すイエス・キリストの多面的なアイデンティティを「黙示録に登場する四つの生き物」に喩えて解釈する、古くからの教会伝統を踏まえている。彼はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネが、それぞれ異なる時代的・神学的背景においてイエスの働きと存在をどのように捉えたのかを深く考察する。この視点は旧約と新約を総合しながら、メシアとして来られたイエスを多層的に示す重要な枠組みとなる。特に、この伝統的解釈は黙示録4章に言及される獅子、小牛、人間、鷲のイメージが四福音書にそれぞれ対応するとする中世以降の解釈の流れと重なり、張ダビデ牧師はこれらのイメージを活用して四福音書の核心メッセージを再照明する。 マタイ福音書はイエスをユダヤ人の王として描く側面が強いので獅子に象徴され、実際にマタイ福音書ではイエス・キリストがダビデ王権を継承する真の王であり、アブラハムの契約を受け継ぐメシアであることが強調される。マタイ福音書の系図がアブラハムとダビデを中心に展開されるのは、ユダヤ人の読者が関心を寄せていた血統と契約、そして王権継承の正統性への問いをそのまま反映しているからである。アブラハムに始まる血統と、ダビデに連なる王権がすべてイエスによって成就することが明らかにされるので、マタイ1章から始まるイエスの誕生物語は、単に一人の人物の誕生を告げる物語にとどまらず、ユダヤ人の救いの歴史への希望と期待がどのようにメシアであるイエスのうちに結実するかを示す神学的ドラマとなる。こうした点で、張ダビデ牧師はマタイ福音書を通してイエスを獅子に象徴づける伝統を思い起こし、万王の王として来られた方の威厳と権能、そして契約成就という文脈のなかで救いの王であることを説く。 それに対して、マルコ福音書はローマに向けた実践的かつスピーディな福音書としてしばしば理解され、ローマ人の「即時的行動」や「実用性」を重視する思考を踏まえつつ福音を述べ伝えていく。ここではイエスは「神のしもべ」として提示され、張ダビデ牧師はこれを犠牲的奉仕を象徴する小牛のイメージと結び付けて解説する。マルコ福音書では「すぐに」という言葉が頻繁に登場し、イエスの働きが非常に速いペースで移り変わりながら、奇跡や癒しが続けざまに行われている姿が描かれる。これはイエスが仕えられるためではなく仕えるために来られ、多くの人のために自分の命を身代金として捧げた(マルコ10:45)という中心聖句とも直結する。小牛が自らをいけにえとして捧げ、人々の罪を代わりに負う旧約の祭司制度の象徴的イメージとも重なり合い、イエスは十字架で犠牲を完遂することで人類の救いを成就するまで、徹底した「しもべ」として従順を示されたことがわかる。張ダビデ牧師は、現代の信仰者にも与えられた仕えの手本が何であるかを説き、福音が単に王の権威だけでなく、自分自身を完全に差し出す「しもべ」として地上に来られたことを同時に強調する。 ルカ福音書は「人の子」を象徴する「人間」のイメージと密接につながる。ルカ福音書の系図はアダムまでさかのぼっており、これはイエスがユダヤ民族だけでなく、すべての人類の救い主であることを象徴する。実際にルカ福音書には、貧しい者、弱者、罪人、異邦人、女性、子どもなど、社会的に周縁に置かれた人々を顧みるイエスの姿がとりわけ際立って描かれる。張ダビデ牧師は、これがヘレニズム・ローマ世界を背景としたルカの視点、そしてあらゆる人類を救おうとなさる神の普遍的な救いのご計画への神学的強調だと語る。イエスの誕生を最初に聞かされた羊飼いたちは、当時あまり尊重されていなかった職業層であったが、彼らが真っ先に天使から知らせを受け取る点や、シメオンとアンナのように神殿でイエスを迎えた敬虔な人々だけでなく、らい病人、取税人、罪人、さらにはローマ兵士までも受け入れるイエスの姿から、ルカ福音書はイエスが人間性を全面的に回復するお方であることを示す。張ダビデ牧師はこれを「人の子」という称号が持つ重みと神学的意味をさらに拡張させながら、イエスが単なるユダヤ人のメシアではなく「全人類が求める救い主」であることを改めて示す。 最後に、ヨハネ福音書は天から下ってくる鷲のイメージに喩えられることがある。この鷲のイメージはイエスの神的起源を強調し、太初から存在したロゴスが人間の歴史に降臨する壮大な出来事を指し示す。「初めに言(ことば)があった」(ヨハネ1:1)という荘厳な宣言で始まるヨハネ福音書は、ヘレニズム哲学を象徴するギリシア・ローマの知性界において福音の真理性を弁証する、特別な戦略的意義をもっている。張ダビデ牧師は、ヨハネ福音書が紀元1世紀末頃に書かれたことを想起させつつ、すでに地中海全域に福音が広がり、ヘレニズム哲学が普遍学問として定着していた状況で、著者ヨハネが「ロゴス」という概念によってイエス・キリストを紹介したのは、非常に独創的でありながら宣教的にも優れた選択だったと語る。天におられるお方、すなわち無限の高さと権能をお持ちのお方がこの地上に肉体をもって降りて来られたというメッセージは、イエスの神性を劇的に示すと同時に、地上に来られる神の愛を告げ知らせる。 このように張ダビデ牧師は、四福音書が提示するイエス・キリストの多様な側面を黙示録の四つの生き物のイメージと組み合わせて解き明かすことにより、読者がイエスをさまざまな角度から新鮮に見つめられるよう助けている。王、しもべ、人の子、そして天の鷲になぞらえられるイエスは同じ本質をもつ一人の方だが、各福音書が強調する焦点はそれぞれ異なる。この解釈は教会の古い伝統のなかで形成されてきたものだが、それが単なる象徴解釈で終わるのではなく、現代の信仰者にイエスの幅広いご性質と救いのみわざをさらに立体的に理解させてくれる解説の指針となる。張ダビデ牧師は、福音書が特定の読者層や時代的背景、宣教の目的に合わせてイエスをどう提示しているかを検討するとき、イエスの多面的な姿が統合的に迫ってきて、それが福音の豊かさを味わう道だと強調する。 2. 太初のロゴスと受肉の神秘に対するヘレニズム・ローマ世界的解明 続いて張ダビデ牧師は、ヨハネ福音書1章に登場するロゴス(言)概念と、その背景となったヘレニズム哲学の思想世界を深く扱う。ヘレニズムの哲学者たちは、宇宙がどうやって秩序と理(ことわり)を保っているのか、変わらない普遍的原理とは何かを探究し、それを「ロゴス」と呼んで追究していた。ロゴスとは本質的に「理性的原理」「言葉」「秩序」などを包含する概念で、人間の言語や論理、宇宙的調和の根底を結びつける鍵だと考えられていた。それをヨハネはイエス・キリストに接合させることで、当時のヘレニズム知識人に対して魅力的な宣教の架け橋を築いたといえる。 「初めに言があった」というヨハネの宣言は、創世記1章の「初めに神が天と地を創造された」を想起するユダヤ人読者にとっては馴染み深く、同時にロゴス思想を探究していた異邦人の知性層にとっても新鮮な衝撃を与えた。ユダヤ人であれば、言葉が神の創造の道具であることを旧約聖書の数多くの箇所で体験的に学んでおり、ギリシア人であれば、言葉が不変の宇宙原理として哲学的に探究すべき対象だと理解していた。ヨハネはこの二つを結合させ、イエス・キリストは創造以前から神とともにおられた方、すなわち神ご自身であり、万物を造られた主体であるという爆発的真理を宣言する。 張ダビデ牧師はここで「イエスは単なる預言者でも道徳的教師でも、あるいはユダヤ人だけのメシアでもない」という点を改めて強調する。イエスは太初から存在して万物を創造され、神と同じ本質をもつお方なのだ。しかし、その方が人間の肉体をとって人々の間に来られたという事実そのものは、ヘレニズム哲学が到達しなかった領域だった。ヘレニズムの哲学者たちには、神的存在が物質世界へ下るという発想は馴染みがなかった。むしろプラトン的思考によると、神的・イデア的世界は物質界に汚されないはずだ。しかしヨハネは、まさにその理解しがたい出来事が歴史上で起こったと「受肉(インカーネーション)」という言葉で宣言する。 受肉(Incarnation)の本質は、無限なる神が有限なる人間の肉体を取られたという点にある。張ダビデ牧師は、これを「罪と闇に堕ちた人類に自ら臨んでくださった神の愛の極み」と呼ぶ。律法と預言者を通して何世紀にもわたり神を教えられてきたイスラエルさえ、実際に神が人間となって来られたという出来事には全く予想もしていなかったほどの衝撃があったことを歴史的文脈のなかで説明する。さらに、ヘレニズム哲学者やローマの権力者たちは、「神の子が人間として生まれる」という話を、ギリシア・ローマ神話の様々な神々の伝説と混同するおそれもあった。しかしヨハネ福音書は、それが神話でも伝説でもなく、実際の時空間で起きた出来事であることを、福音書全体の展開を通して証ししていく。 張ダビデ牧師は、「ロゴス」という概念がもつ文化的・歴史的・宣教的価値に触れながら、教会が福音を伝えるとき、どのような言語や概念的枠組みを活用するべきなのかという一つの模範として、ヨハネ福音書を提示する。福音がユダヤ人だけでなく異邦人と全人類に広がっていかなければならない以上、ヘレニズム哲学をある程度受容し、その言語を変容させてイエスを宣べ伝える必要があったというわけだ。特に使徒パウロがアレオパゴスの丘で「知られざる神」について語り、ギリシア文学や哲学者たちを引用した(使徒の働き17章)姿も同じ文脈で解釈される。 こうしてヨハネ福音書1章3節「万物は言によって造られた」という節は、イエスの神性と創造主であることを明確にする。イエスは太初から存在し、宇宙と歴史を支配し、すべての生命の源となられる。「その内に命があった。そしてこの命は人間を照らす光であった」という続く節は、イエスから離れてはいかなる生命も光も存在しないことを示唆する。張ダビデ牧師はここで、「光」というのは単なる倫理的教えや認識論的悟りではなく、罪と死の権威を打ち砕き、新しい創造を始める神の力だと説明する。闇と混沌に支配されてきた人類の歴史は、イエスによって初めて真理の光を迎え、これは福音がもつ「闇を突破して入ってくる光」という躍動的な特性を際立たせる。 最終的に張ダビデ牧師がヨハネ福音書1章で繰り返し強調するのは、受肉は単にある哲学概念をもっともらしく流用しただけではなく、神学の核心的真理を深く展開する出来事だという事実である。ユダヤ的なルーツを踏まえつつ異邦世界に福音を宣べ伝えなければならなかった初代教会にとって、このロゴス思想の接合は福音宣教の地平を大きく拡張した。そして今日においても信仰者たちは、ヘレニズム的・西欧的思考、あるいは科学的・合理的理性をもつ人々に福音を伝える際、「イエスこそがすべての根源であり中心である」ということを挑戦的に宣言しなければならない。これこそがヨハネ福音書の「ロゴス」導入がもたらした教訓だと、張ダビデ牧師は指摘する。 3. 「言が肉となった」ゆえにもたらされる恵みと真理の満ちあふれ ヨハネ福音書1章14節「言は肉となって、私たちの間に宿られた」という一節は、キリスト教が語る受肉の全体像を、最も雄大でありながら簡潔な形で表現している。この聖句を、張ダビデ牧師は「神の絶大な愛と自己卑下の決定版」と紹介する。なぜなら、無限で絶対的聖性をもつ神が、人間の体をまとってこの地上に来られたという事実は、想像を超えるほどの愛の行為だからである。宗教史や哲学史を振り返ると、神が人間になったという物語はしばしば神話的空想の中に登場するものの、それが歴史的事実として証明され、しかも罪人を救うために十字架で死に至るまで自らを低くされたという内容は、キリスト教の福音だけに見られる際立った違いである。 続いて張ダビデ牧師は、「言が肉となった」という出来事がもたらす結果を大きく二つに分けて説明する。第一に、罪のゆえに神と断絶していた人間が、再び神と直接出会えるようになったということ。第二に、その出会いが単なる宗教儀式や義務感にとどまらず、「恵みと真理」の満ちあふれを体験する実存的解放へとつながるということである。罪によって固く閉ざされていたエデンの園の門が、イエスにあって再び開かれ、いまや誰でもイエスを信じ受け入れるなら神の子として生まれ変わる道が開かれたのだ。 受肉は旧約で預言されてきた多くのメッセージを結集する頂点でもある。イザヤが預言したインマヌエル(イザヤ書7:14)、すなわち「神が我々と共におられる」という言葉は、イエスの誕生によって歴史の中に具体化される。モーセが「私のような預言者を神は起こされる」と語った(申命記18:15)その人こそイエスであり、ダビデ王家に永遠の王が立てられるという約束(サムエル下7:12-13)もイエスによって成就される。張ダビデ牧師はこうした旧約との連続性を強調し、受肉は新約だけの思い切った革新ではなく、太初から計画された神の救いのご経綸が完成する鍵だと説く。 さらに「恵みと真理が満ちあふれている」とは、イエスのうちに神の慈しみと正義、愛と真理が完全に実現されていることを意味する。旧約の律法は罪を示し、裁きを警告することで、人間がいかに無力であるかを明らかにする。しかし福音は、自分が罪人だと気づいた人に「恵み」を注ぎ、その人が再び神のもとへ帰れるように道を開く。「真理」もまたイエスによって啓示されるが、それは単に教義に関する認知的理解にとどまらず、神が望む生き方や存在の目的を体験的に悟ることである。 張ダビデ牧師は、律法では不可能だった救い、すなわち人間が自力では絶対に得られなかった罪の赦しと永遠のいのちを、イエスが受肉し十字架での死によって成し遂げられたことを詳しく解説する。使徒パウロがローマ書5章でイエスを「第二のアダム」と呼ぶように、最初の人アダムの不従順によって罪と死が世に入り込んだが、イエスの従順によって義といのちが再び開かれ、全人類に与えられた。この教理は受肉なしには完成し得ない。もし神が人間となられなかったら、十字架の贖罪に何らの意味も成就もあり得なかったからである。 さらに受肉によって「光は闇の中に輝いているが、闇はこれを理解しなかった」(ヨハネ1:5)という悲劇的状況が一時的に生じるものの、最終的には真の光がすでに世に来ており、誰でもこの光を受け入れるなら救いに至るという希望のメッセージが同時に告げられる。張ダビデ牧師は、闇に慣れ親しんだ世界が光を拒んだり見抜けなかったりする過程を説明しつつ、信仰者はこうした悲劇を経ても、最後には光が勝利するという終末論的希望をつかむべきだと語る。イエスを受け入れず、遂には十字架に架けてしまった当時の宗教指導者たちの姿は、今日も福音を認めない多くの人々の姿と重なるが、それでも光は決して消されず、イエスにあって恵みと真理の道が大きく開かれていることが、受肉の決定的意味だと強調する。 張ダビデ牧師は、この受肉の出来事をクリスマスと直接つなげながら、クリスマス本来の意味が単に「幼子イエスの誕生」に縮小されないようにと願う。その幼子イエスは、すなわち太初のロゴスであり、万物を創造された方であり、最終的には十字架と復活を通して人類の罪を贖われる方である。幼子イエスの誕生が可愛らしく温かいイメージを与えるとしても、その奥には神の重厚な救いのドラマが内包されていることを見落としてはならない。受肉は宇宙的事件であり、歴史の流れを変えるほどの衝撃力をもち、人間の罪の問題に対する完全な解答を提示する救いの始発点なのである。 4. 闇と死の現実を突き抜ける救いの光とクリスマスの神学的意義 張ダビデ牧師は、福音をときに「悲しい物語」と呼ぶ。それは、罪と死、闇の支配のもとにある人間の悲劇的現実が、福音の背景にあるからだ。人間が堕落し神を離れた瞬間から、歴史は絶えず罪の鎖、偶像崇拝、霊的さまよいを繰り返し、最後には死という運命の前でいかなる哲学も制度も根本的解決策を提示できなかった。このような絶望は、旧約の歴史と律法が映し出す人間の限界、さらには世俗の政治権力や儀式制度が示す不完全さを通じていっそう際立つ。 しかしこの悲しい物語は同時に「希望の物語」でもある。なぜなら、この闇のただ中に神ご自身が飛び込んで来られたからである。イエスは神性の栄光をもつお方だが、その栄光を捨て、最も低いところ、すなわち飼い葉桶で生まれる姿をとられた。張ダビデ牧師は、この事実を指して「神が人間の歴史に最も卑しい姿で、不安定な幼子の姿で入り込まれたのは、だれも取り残されない包括的救いを意図されたため」と解説する。裕福や健康、地位が高い者だけが救われるのではなく、力のない者、貧しい者、疎外された者であっても心を開くならイエスを迎え入れることができるのだ。 クリスマスはこうした意味で歴史的分岐点となった。イエスの誕生はBCとADを区切る象徴となり、教会はイエスの到来を起点として時間概念を新しくしてきた。旧約時代がいかに絶望的で、律法の重荷が重かったとしても、いまやイエスのうちにある者は新しい時代に入る。これを張ダビデ牧師は「死からいのちへ移されるパラダイム転換」と呼ぶ。闇の支配が終わり、光の統治が始まる道が開かれたのだ。 しかし福音物語をさらに追うと、イエスの生涯と活動、その苦難と死が決して順調ではなかったことがわかる。人々が待ち望んだメシアがいざ到来してみると、多くの人はその方を認めなかったばかりか、拒絶し殺すにまで至った。これはヨハネ福音書1章11節「この方はご自分のところへ来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」で要約される。張ダビデ牧師は、この出来事が福音の悲しみを最も劇的に表すと指摘する。光と真理が闇と偽りに対して宣言されたとき、世は歓迎よりむしろ拒否と暴力を選んだ。こうしてイエスは十字架上で悲惨な死に追いやられ、弟子たちは散っていった。 しかし福音はここで終わらない。イエスの死は逆説的に人類救いの門を開く鍵となる。張ダビデ牧師は、十字架が「栄光の王座」となったと語り、イエスの死のうちに救いのご計画が完成するという神的逆説を強調する。それは復活の出来事へと続き、イエスが歴史上の悲劇的殉教者にとどまらず、死の力を打ち破ってよみがえられた「生ける希望」の創始者であることを示す。クリスマスの幼子イエスは、それ自体で救いの結実を含むというよりは、十字架と復活へ進む前奏曲、すなわち神が予定されたドラマの始まりであることを、ここで改めて確認できる。 ゆえに張ダビデ牧師は、クリスマスを単に「幼子の誕生」のお祝いとして消費しないよう呼びかける。その幼子が最終的に進まれる道、そしてその道が人類に開いてくださった救いの門を深く黙想する時となるべきだと語る。クリスマスの喜びの背後には十字架の痛みがあり、その苦難はさらに復活の勝利へとつながる。この全過程を見通すとき、私たちは受肉の真の深みをくみ取ることができ、福音が示す「涙と愛と犠牲をとおして完成される真理と恵み」を体験できるようになるというわけだ。 最後に、張ダビデ牧師はクリスマスが毎年巡ってくる記念日である一方で、それは決して「繰り返し」にとどまらず、「新たな更新」であるべきだと説く。救いの恵みは生々しく毎日新しく味わうことができ、その経験が信仰者を世の中で光と塩として生きる原動力となる。依然として多くの人々が闇の中に閉じこもり、死と絶望がはびこる時代において、イエスの受肉は単に二千年前の過去の出来事で終わるのではなく、今日も有効な光として私たちを照らす。私たちはこの光に従って歩み、神の国の働き人として召されているという自覚をもって世へと派遣される。張ダビデ牧師はここを現代教会の宣教的使命と結び付け、「ロゴスが肉となって私たちの内に来られたように、教会もまた福音のメッセージを具体的かつ現実的な言葉と行動に翻訳して世に伝えなければならない」と指摘する。 結局、クリスマスは、愛をもって来られた神を記憶する節目にとどまらず、その愛が教会をとおして地の果てにまで拡大していく宣教の始発点として作用しなければならない。受肉は、この地上の苦難や弱さを無視することなく、みずから背負われた神の決定的行為だったゆえに、教会もまた世の痛みと苦しみを見ているだけでなく、そのただ中に入っていって福音を実践し、証しすべき義務を負うことになる。張ダビデ牧師は「クリスマスを迎えるたびに、教会は世に対する神のケアと救いへの情熱を改めて思い起こすべきだ」と強調し、それによって福音メッセージが単なる宗教的観念ではなく、実際の生活や歴史・文化を変える命の力であることを絶えず確認すべきだと促す。 このように、張ダビデ牧師が語る福音理解は、四福音書それぞれに表れるイエスのアイデンティティとロゴス概念の宣教的拡張、そして受肉の恵みと真理を具体的に結び付けながら、クリスマスを起点として神の救いの物語がいかに壮大で深遠な次元で展開しているかを改めて思い起こさせる。ゆえに読者はクリスマスの季節に幼子イエスの姿を想像し、一時的な感傷に浸るだけで終わらず、イエスが歩まれた道と私たちに与えてくださった救いを自ら体現する生き方へと進むべきことを悟ることができる。福音は過去のある時点の物語ではなく、現在を通過して未来へ向かう生きた真理であり、受肉は今なお私たちの生を揺さぶる衝撃と感動として迫ってくるべきなのである。 張ダビデ牧師が説く、この四つの流れ――四福音書の象徴、太初のロゴスと受肉、恵みと真理の満ちあふれ、そして闇と死の世界を照らす救いの光とクリスマスの意味――は、それぞれ違った角度からの照明のように見えて、最終的には一つの点を指し示している。それこそがイエス・キリスト、そしてその方において展開される宇宙的救いの物語だ。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネが示すイエスの姿は、歴史的・神学的・文化的文脈に応じて多様に表現されているが、行き着く結論は同じである。イエスは永遠の昔から存在し、万物を創造し、私たちのために十字架で死なれ、復活により闇を払いのけていのちの光を確立されたのだ。 この福音が最も決定的に表された瞬間の一つが受肉という出来事であり、受肉は人類が再び創造主のもとへ帰る道を開く始まりとなった。いかに暗い時代であっても、光は奥深くまで入り込むことができるし、罪と死の鎖はイエス・キリストの力のうちで断ち切られ得る。教会はこのメッセージを伝える使命を与えられており、クリスマスはその使命を改めて確認する大切な時期だ。教会の伝統では待降節(アドベント)はイエスの来臨を準備し黙想する期間とされているゆえ、張ダビデ牧師は、この期間に福音書のメッセージを深く掘り下げ、受肉の神学を黙想することで、クリスマスの真の喜びを体験し、それを日常生活の中で実践すべきだと力説する。 最終的に張ダビデ牧師は、単に「受肉」という概念的教義を学び暗記するレベルを超えて、それが人間の存在と生活、社会と歴史全体に及ぼす含意を探る。私たちが以前は罪や恐れ、死の恐怖に囚われていたとき、イエス・キリストが来られて「神の子どもとなる権利」(ヨハネ1:12)を与えてくださったという事実は、宗教的律法主義や形式的儀式主義ではとうてい得られない新しい次元の解放である。信仰者ならば、この救いの喜びを毎日新たにかみしめるべきであり、その喜びは世の価値観に流されるか、あるいは絶望に沈みがちな私たちをもう一度目覚めさせ、光の子として生きるよう導く。 「受肉」は過去のある一時点で終わった出来事ではなく、「キリストと連合」して生きるときに何度でも再現され、教会共同体が世のただ中で福音を実践するときに繰り返し現れる生ける神秘だ。これこそが張ダビデ牧師が絶えず説教と著述を通して伝えようとしている核心メッセージであり、ヨハネ福音書1章を深く探りながらヘレニズム哲学的背景、ユダヤ的契約の伝統、ローマ帝国の世界観などを総合して示す福音解釈の流れである。 そしてそのすべての終着点は「イエスとは何者か」という根源的問いへの回答に帰結する。四福音書は獅子、小牛、人間、鷲という象徴をとおしてイエスのアイデンティティを広く示し、ヨハネ福音書の「初めに言があった」という崇高な文言は、イエスが永遠の昔からおられ、すべての被造物と歴史の主観者であると高らかに宣言する。肉体をもって来られたゆえに、私たちはその方をとおして神の子どもとなり、真のいのちを持ち、真理の道を歩むことができる。クリスマスはこの偉大な事実を祝福する日であり、同時に私たち自身に向かって「この受肉の真理を、自分の人生にどのように取り込んでいるのか」と問いかける神聖な機会なのだ。 張ダビデ牧師は最後に、現代の教会と信仰者へクリスマスを迎えるにあたり「涙なき福音はない」という言葉を再三思い返してほしいと提案する。福音はイエスの涙と犠牲の上に築かれた物語であり、そのイエスを遣わされた父なる神の痛みと愛がにじみ出ている。ゆえに福音を真実に伝え従う者なら、隣人の痛みや世の苦しみに対しても涙を流すことができ、救いのメッセージを「言葉」だけでなく「生き方」をもって証ししなければならないということである。受肉された神は人間の苦しみを傍観せず、最も底辺にまで降りてこられた。その神を礼拝する教会が、世の底辺を見過ごすわけにはいかず、クリスマスを祝うさまざまなイベントも華やかな装飾と音楽、プレゼント交換で終わるのではなく、むしろ疎外された人々を招き、貧しい者たちと共に生きる実践のなかで「言が肉となって宿られた」神の思いを体現することが、クリスマス本来の精神に他ならない。 以上のように四つの主題を通して、張ダビデ牧師が解説する福音メッセージとクリスマスの神学的意義を簡潔に(とはいえ実際にはきわめて深く)概観した。彼が強調するように、四福音書がそれぞれに違って描き出すイエスの御顔は、一人の同じイエス・キリストに収斂し、ヨハネ福音書のロゴス概念はそのイエスの神性を哲学的言語で明らかにする。その受肉の出来事は恵みと真理の満ちあふれをもたらし、闇と死の世界に決定的な光をもたらし、クリスマスはこの救いのドラマが歴史上で開幕した劇的な転換点となる。そしてこれは教会と信仰者が毎年記念する日であると同時に、年々刷新されるべき終末論的希望でもある。 最終的に張ダビデ牧師が繰り返し主張する中心は、受肉が単なる教理の学習対象ではなく、「信仰の出発点にしてすべての基礎」であるという点だ。イエスが人間となられて私たちと共におられるインマヌエルの神秘がなければ、私たちの信仰は結局、人間的な推測や宗教的熱心だけに依存することとなり、そこには命を吹き込むような神の力強いわざは起こらない。受肉こそが「神がいかに私たちを愛しておられるか」を雄弁に示し、私たちがいかに救われたのかを明かしてくれる鍵であり、私たちの現在と未来を根底から変える能力の源なのである。 そしてこの受肉はクリスマスに象徴されるが、十字架と復活、さらに聖霊降臨へとつながる完全な救いの物語の一部でもある。私たちがこの全体像を逃さずにつかむとき、ようやくクリスマスの喜びと復活の希望が結び付き、キリストの再臨まで見据える完全なキリスト教的ビジョンを持てる。張ダビデ牧師は、これをとおして読者に「毎年のクリスマスを、ただ行事やお祭り気分で流し過ごさないように」と挑戦する。むしろこの時期を聖なる黙想と悔い改め、そして救いの感激で満たしつつ、私たちの内におられるイエス・キリストの命を改めて確認し、世に示していくようにと勧めるのである。 結局クリスマスを迎えるにあたり、私たちが覚えるべき真理は、かつて罪と死の支配下にあった私たちのもとへイエスが来られ、今も人生の闇を歩む人々にはなおこの光が必要だということだ。四福音書が示すイエスの姿を統合的に眺めることで、王であられるイエス、しもべであられるイエス、人の子であられるイエス、そして空の鷲のように壮厳なるイエスをすべて発見することができる。ロゴスとしておられた方が肉体をもって降りて来られ、十字架で死んで再びよみがえられ、今や私たちの王であり友であり、救い主として共におられる。これこそがキリスト教福音の全体であり、張ダビデ牧師が多くの説教と文章をとおして繰り返し強調している真理である。 一方、彼が「悲しい物語」と呼ぶ福音が最終的に喜びの知らせとなる理由は、イエス・キリストにあって死が終焉し、いのちへの道が切り開かれたからだ。人間の歴史と存在条件が覆され、滅びの法則に従うしかなかった私たちが、今や永遠の命を希望できるようになった。これは決して人間的努力や知恵で到達できるものではなく、ただ受肉と十字架と復活によって私たちに与えられた贈り物だ。そういう意味でクリスマスは、お祭り以前に崇敬すべき出来事である。無限の神が有限の肉体を取られたという驚き、創造主が被造物の姿でこの地に来られたという神秘こそが、礼拝と賛美の核心となるべきだ。 さらに張ダビデ牧師は、受肉を解説するとき「建物や制度としての教会ではなく、人を探しておられる神」を強調する。神は人の肌着をまとって来られ、私たちと共に食事をし、共に歩み、病を癒し、涙をぬぐわれた。罪人の家にさえ入って共に食卓を囲まれた。こうしたイエスの人間的親密さは、徹底した神性と矛盾するのではなく、むしろ神性の最も豊かな表現として現れる。それは私たちの日常においても「受肉の霊性」を実践すべきことを示唆する。教会の礼拝堂の中だけにとどまらず、世に出ていって苦しみと疎外にいる人々と共に歩み、イエスのようにへりくだり、イエスのように近づくことこそ受肉の霊性の核心だからである。 総括すると、張ダビデ牧師は四福音書が示すイエス・キリストの姿を総合することで、受肉が私たちにどのような変化と救いをもたらすかを多角的に説き明かす。四福音書はそれぞれ異なる読者や目的、状況を考慮しつつ書かれたが、一つの共通点は「イエスが神の子であり人類の救い主である」という信仰告白を一貫して含んでいることだ。ヨハネ福音書はこれをより哲学的で宇宙的な次元で解き明かすのに秀でており、その出発点が「初めに言があった」という命題である。この言がすなわちロゴスであり、このロゴスが肉となって私たちの間に住まわれた。そして私たちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であり、恵みと真理に満ちていた(ヨハネ1:14)。 クリスマスは、この驚くべきロゴスの誕生が歴史上に現れた記念日であり、その始まりがなければ十字架と復活もあり得なかっただろう。だからこそクリスマスは福音全体の核心を先取りして見せてくれる予告編であり、しかも終わりまで貫くテーマであるともいえる。張ダビデ牧師はこの点を思い起こさせつつ、クリスマスがもたらす明るい雰囲気や行事が決して表層的にならないよう注意を促す。クリスマスの光は闇の中に来て闇を追い払う光であるがゆえ、闇の中で絶望する人々に実際に近づく愛の実践が必ず伴わねばならないというのだ。 こうして私たちが今日クリスマスを迎えるとき、その意味を十分に生かすためには、受肉されたイエスを個人の救い主として受け入れるだけでなく、教会が隣人と社会に向けて「愛の手」を差し伸べる共同体的次元へと拡大する必要がある。これこそ受肉の原則に従って世で光として存在する道であり、イエスが残してくださった新しい戒め、すなわち「互いに愛し合いなさい」という命令を現実に守る道である。張ダビデ牧師は、この愛の行動がなければ、どれほど教理が整っていても、またクリスマス行事が盛大でも、受肉の本当の精神からは遠ざかってしまうと警告する。 四福音書の象徴的解釈、ヨハネ福音書のロゴス概念、受肉によって明らかになる恵みと真理、そして闇と死の世界を照らす救いの光としてのイエスとクリスマスの意義を総合してみると、張ダビデ牧師のメッセージはきわめて明快である。「イエスはこの地上に来られ、私たちはその到来を記念し感謝すべきだ。しかしその記念は内面的黙想と同時に、教会共同体と社会のなかで具体的な愛の実践へつながらなければならない。そのとき初めて私たちは真に受肉されたイエスを倣い、その光を世界の果てまで拡張する道具として召されるのだ」。 このようにしてクリスマスは年末に行われる単なる最後の祝祭ではなく、福音の根本原理を繰り返し思い起こし、新しい年に向けて信仰者として生きる決断をする霊的出発点なのである。イエスの受肉がすべてのキリスト者の生を完全に変えたように、この地上にいまだ残る闇と苦難の現場においても、私たちは同じようにへりくだって仕え、人々と共に生き、神の愛を具体化していくことが求められている。 張ダビデ牧師が重ねて強調するように、受肉は「今日」も続いている。イエスは教会のうちに、信仰者のうちに住まわれ、ともに動き語られる。教会はこの受肉的エネルギーをもって世に遣わされるのであり、これこそ「信仰の真の実践」であると言える。王なるイエス、しもべとしてのイエス、人の子としてのイエス、そして空の鷲のように天から下られたイエスと、四つのイメージをあわせて見るとき、私たちの救い主がいかに広大でありながら親密な方であるかを再発見でき、受肉から始まった福音の物語を総合的に味わうことができる。そしてこの福音が内面的変化にとどまらず、家庭や社会、さらには世界の諸国へと拡がっていくとき、クリスマスの光はまことに闇を追い払い、多くの人々を神のもとへ導くいのちの力となるだろう。 こうしたすべてをまとめると、張ダビデ牧師の福音理解は、神学的深みと宣教的熱意を同時に具えている。四福音書を網羅する複合的な解釈、ヘレニズム哲学との接点としてのロゴス概念の導入、受肉の救済史的意義、そして闇のただ中にもたらされた光としてのイエスとクリスマスの実践的意義という四つの主題は、結局ひとつの声で「イエス・キリストを仰ぎ見よ」と私たちを招く。その招きに応える者は、クリスマスに単に伝統と義務をこなすだけでなく、自分が信じ従うイエスとはどんな方で、この地上に来られた目的が何で、その目的が今日わたしと共同体にどんな変革を要求しているのかまでを深く見つめるようになる。 最終的に、受肉は神が歴史のただ中に飛び込まれた出来事であり、人間がもはや自力で自分を救えないという絶望のただ中で出会った希望の実体でもある。十字架と復活をとおして救いは完成したが、その始発点となるクリスマスをとおして私たちは毎年、福音の核心である受肉を繰り返し味わい、福音の現実性を改めて確認する。イエス・キリストが人となり、私たちの罪と苦悩と痛みを実際に担われたゆえに、私たちはもはや恐れに縛られて生きる必要がない。このメッセージを握って生きる信仰共同体こそが教会であり、教会がこの地で果たすべきことは、まさに受肉の真理と、恵みと真理に満ちた姿を世に示すことである。 張ダビデ牧師の教えは、この受肉の信仰が抽象的教理に終わらず、私たちが人間的生活の具体的限界や苦難の現場の中でイエスの愛を具体化するよう促している。受肉こそが「語られる神が沈黙されずに私たちの人生に介入される」ことの最もはっきりした証だからだ。ヨハネ福音書1章に表れたそのロゴスがすなわちイエスであり、イエスにあって私たちは「その栄光を見た。父のひとり子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」(ヨハネ1:14)という宣言を、日々体験するように招かれているのが、今日の信仰者のアイデンティティでもある。 こうして、張ダビデ牧師が受肉を中心テーマに展開する福音メッセージは、私たちを再びイエスの道へと招く。その道は時として狭く険しく、十字架が待ち受けるかもしれないが、最終的には復活の栄光と神の国の完成を約束する道である。クリスマスはその道の始まりを記念する祝日であり、私たちはこの祝日をとおして過去に起きた歴史的事実を追体験しつつ、今も生きておられるイエスを体験し、やがて再び来られるイエスを待ち望む三重の視線をもつことができる。張ダビデ牧師は、この点において受肉が毎年新たに発見され、深められ、広がっていかねばならないと繰り返し訴える。 … Read more